哲学と心理学、どちらがより根源的か。
哲学だ、という答えがより一般的だろう。
「哲学とは、森羅万象について、もっとも根源的に掘り下げて行く作業で
あるからである」

おわり♪




















…座布団が舞っているようなので、「心理学がより根源である」という方に
肩入れしてみよう。

「哲学」は、人を離れて存在するものではなく、それを認識する人間がいて
はじめて成り立つものである。
というか、人間のある認識形態のことを哲学と読んでるのだからあたぼうだ。
世界には数多くの哲学体系が存在する。
哲学を森羅万象に関する言語化、もしくは秩序付けであるとすると、人間の数だけ
哲学の形態が存在するといってもよいだろう。

ところで、様々な哲学のバリエーションはどこに分岐点を持っているのか?

人間に共通なものの他、個人的な資質、そして生育環境とに主に分類できるだろう。

哲学とは万人にとって、あるいは、人間を超えたものにまで当てはめて真であるもの
を求める営みであるが、上記3つの分岐要素は、客観にあるものではない。

ハイデッガーが不安の源を「他者」と「死」に還元させたこと、「死」への眼差しが
人間の本来的な生を与えるといったこと、「存在」に目を向けたこと…それらは、彼
にとって「死」が極めて大きなものとして映るような体験と彼自身の心理状態との相
互作用があったのだと想像することは容易である。

ニーチェの永劫回帰の思想なども、あきらかに彼の個人的な体験から得た洞察を世界
に投影したものであろう。

すると、ニーチェ自身が述べていたように、哲学は、その体系そのものの内容よりも、
いかにしてその哲学に至ったのかという哲学者自身の人生により根源的な意味…つま
り、諸哲学を統合させるための鍵があるということができる。
そして、彼の人生を相対化するためには心理学が最も性能の良い言語となる。
つまり、「諸哲学体系は心理学的な言語によって記述される」

従って、心理学は哲学のメタ構造としてより根源的である。

<お?!実は心理学のほうが根源的なんだ~。>

じゃあ、今度は哲学側の反論を。

当然、上のような議論は哲学の領域でも散々論議されている。
「客観的な真理はない」ということは、現代の哲学で主流の考え方である。
哲学者の状態を記述する言語だって持っている。
また、心理学で扱えるのは人間の心であるが、哲学においては、まさにすべての
ものを扱うことができる。
「観念論」-人間の認識を離れて事物は存在しない…という否定不能の命題が
あるが、これを前提とすれば心を記述することによってすべての存在を扱うと
いうこともできるが、哲学においては、「観念論」そのものを扱うことができる。
つまり、前提をどこまでも遡ることができるのは哲学だけである。
よって、哲学の方がより根源的である。

<む?!やっぱ哲学のほうが根源的なんだ~。>

再び心理学の反論

「観念論」以前を考えられるということは可能性なのか?
むしろ、現実生活における不可能性からやってくるのではないか?
つまり、人間-哲学は人間を離れて存在しない-は、哲学において自由に考えてい
るのではなく、心理学的な要因から考えさせられているだけなのではないか?
もしも、前提を遡るという事が心理学的な前提によって記述されてしまうのであれ
ば、前提をいくら遡ったところで、単に無限後退に陥いっているだけで、どこかに
基準を定めるのよりも勝ることは一つもないではないか。

哲学者が哲学の議論を行っているシーンを思い浮かべてみて欲しい。
普通の人間がその会話を聞いてもなにも分からない会話が延々と流れてゆき、やが
て終わる。
いったい、その前後で彼らの中で何が変わったのか?
腹は膨れてない。子供もできない。

起こったことは、お互いの内面世界を覗き合ったというところだ。
自分のなかにある哲学的な世界を見せ、相手のそれを見ることによる快、あるいは
分かり合えなくて起こった不快。
他にも、哲学することを人間の崇高なる所作と考える人ならば、ただ哲学的対話を
行ったということから満足を得ているかもしれない。

そのように、哲学的な営みはすべて人間に心理学的な変化を起こしているに過ぎな
い。
これは、哲学の執筆活動にしても同じ事だ。

そもそも、森羅万象に対する説明をつけたいという願望自体が心理学的な起源を持っ
ているではないか。

<なんか、さっきと同じことを繰り返しているみたいだけど、確かにそうだな>

またまた哲学サイドより

なるほど、あらゆる哲学者の営みを心理学的な要素に還元することは可能だ。
では、哲学の中身についてはどうか?

哲学の原初の問い
「善いとはどういうことか?」
なんかに関しては記述できるだろうが、
「人生とは何か、その意味は?」
なんてのはどうだろう。

これも記述できると言うかもしれないが、その心理学的な記述ということはいった
いどんなものなのだろうか。

心理学はある原型を設定し、物事をそこに還元して行く作業によって営まれている
が、その営み自体について問いかけることはしない。原型をいかに定めるかについ
ても議論しない。
考えることについて考え、考えることについて考ええることについて考え…という
ように、自分自身を思考対象にしてゆくことができるのは哲学だけだ。
心理学的な営みそのものを考えることができるのは哲学だけだ。
心理学とは、盲目的に物事を分類し、それだけで「分かった」気になるだけのことな
のだ。

<あ、なんか、決定打っぽいね。でも、心理学側からの反論もまたできるね。どう
も、お互いに「自分は相手のメタ構造を持っている」というのを繰り返しているだ
けで、延々と話が続いて行きそう。>

というわけで、この辺で両者を統合してみよう。

そもそも、理論とは物事を説明するための概念と概念の関係性によって作られる。
そして、「分かる」ということは、その理論の中に、その現象を組み込むことがで
きた時・・・いや、できたと思えたときに起こる現象だ。
そういう点では、哲学も心理学も同じである。
哲学ではそういった活動自体も積極に思考しているが、その認識結果というのは、
心理学においても適応されているもので、要するに、事物を説明しきっている
かのように見える間は単なる適応において物事が「分かる」気にさせるし、そう
は思えないと、修正したり、新しく理論を打ち立てたりすることになる。
これは、もちろん科学などにおいてもまったく同じである。

哲学と心理学の違いとは、ある現象に対し、どのような側面に光をあてるかとい
う違いと言ってよいだろう。

人間の営みの原動力、意識の働き方をある原型(ユングの六原型、フロイトの性
的抑圧、AC理論における人間関係など)を設定して還元してゆくのが心理学。
一方の哲学は、意識を通して映し出される世界の在り方の解釈、あるいは解釈方法
を、その意識自体から得る情報を元に追究してゆく。

とすれば、哲学のほうがより扱う範囲は広いかのように見える。
しかし、哲学のあらゆる営みが「意識を通して」のものである以上、その意識のあ
り方に関する記述を行う心理学と同じ範疇にとどまることになる。

結果、どちらがより根源的とは言えない。
英語と日本語のどちらがより根源的かを言えないのと同じで、局面によってどちら
かがより有効にはたらくことはあっても、どちらかが他方を包含する関係にはない。

ところで、心理学、哲学を生物学に還元することもできる。
心理状態という生物の特性を脳生理学的に扱うことによって(扱いきれない部
分についても技術力不足による未解明に終着させられる)、
哲学的な問いは、認知システムを中心に、人間の特性を分析することによって
扱うことができる(たとえば、時間や言語が脳内のどういった構造により処理さ
れているのかを見ることによって)。
これも、人間現象を捉える一つの言語である。

このような言語は、宗教と呼ばれるものなど含め、数限りなく存在する。
いずれも、「応用範囲が広い」「正確な予想を立てることができる」などの特性はあれ
ど、すべてにおいて優れた体系は存在しないし、「優れているから根源的だ」ということ
も、定義いかんでしか可能ではない。

そもそも、「より根源的である」をどのようにして決めたらよいのだろう。
哲学的な視点から決定するのであればその答えは「哲学」になるだろうし、
心理学的な方法を選択するのならば、「心理学」になる。

ちなみに、科学的な定義で「根源的」は以下のようなものだ。
より少ない前提を元に組み立てられ、現象記述により広くより正確な整合性を持つ
体系が最も優れた理論であり、その理論においてそれ以上還元できない概念、法則
が一番根源的なものである。

これは、お約束です。
物理的な分野など、科学の適応範囲ではこれでよいのでしょうが、哲学や心理学に
おいては「広い」「正確」が明確に定義できない分野が多く、これをあてはめるこ
とは難しい。

思考においてどこにも原点を取らないのは不可能ですが、もっとも自由である視点は
…相対主義的哲学になりますかな?

というわけで、最後の最後、僕は個人的に哲学に軍配をあげてみちゃおう。
だって、この文章、というか、思考法、実に哲学的だもん。

……これを読んだ心理学者はほくそえむだろうね(^-^)
BACK top