ニート肯定否定
2006/03/26
昔の勉強会(飲み)仲間の対談を読んでちょっと毒吐きたくなった。
私は、下記に記述されるような開き直りニートが嫌いだからだ。
>僕も取材で何人か、ニートやひきこもりの人と会いましたが、「結局、
>僕たちを国は強制労働させたいんでしょ」と言う。
国も家族も"普通の社会人"であることを期待することが多い。
国は当然税収を期待しているし、家族は独り立ちを期待する。
どちらも機関として、生物として当然持つ期待ではある。
が、"社会人"になったところで幸せになれる保証なんてない、という空気が時と共に濃くなった。
レールの上を行っても幸せの保証がないことは真実を含む。
そして、しばしば、そのことはニート肯定の根拠となる。
幸せになれないかもしれないのに働く→誰かのために働く→強制労働 という連想もあるだろう。
("社会人"にならないことで幸せになる、という保障もないとかいう点はおいておき)その肯定を
私は「彼が他の国民の労働の結果を享受しない覚悟を持って生きるならば」という条件付きで尊重する。
が、ほとんどのニート肯定人はその条件を満たしていないように私には映る。
彼らは自分の労働を拒否しつつ、他人の(時に余剰の)労働の成果であるインフラ、生活の快適さだけは
十分に享受している。
そうである以上、一方的に非難できる立場に彼らはないと思う。
そして、自分達が理解されないことを嘆く人々のうちのどれくらいが、「強制労働させたい」
かのように振舞う人々の心理を理解しようとしたのか、疑問である。
宮沢賢治の「銀河鉄道の夜」のとあるシーンが思い起こされる。
(下記引用)
>「あなた方は、どちらへいらっしゃるんですか。」
>「どこまでも行くんです。」ジョバンニは、少しきまり悪さうに答えました。
>「それはいいね。この汽車は、じっさい、どこまででも行きますぜ。」
>「あなたはどこへ行くんです。」カムパネルラが、いきなり、喧嘩のやうにたづねまし
>たので、ジョバンニは、思わずわらひました。
(中略)
>「どうです。すこしたべてごらんなさい。」鳥捕りは、それを二つにちぎってわたしま
>した。ジョバンニは、ちょっと喰べてみて、(なんだ、やっぱりこいつはお菓子だ。チョ
>コレートよりも、もっとおいしいけれども、こんな雁が飛んでゐるもんか。この男は、
>どこかそこらの野原の菓子屋だ。けれどもぼくは、このひとをばかにしながら、この人の
>お菓子をたべてゐるのは、大へん気の毒だ。)とおもひながら、やっぱりぽくぽくそれをたべてゐました。
どこへ行くのかわからない世界。
その中でどこかに向かうところがあるかのように(意識的無意識的に)振舞う人々と、振舞うことを拒否する人々。
どちらを選ぼうと、人々は生きているという共通項で結ばれる。
現代に生きていくこと。
それだけのことが、どれだけのものを享受することでなりたっているのか、に想像力を馳せてほしい。
働けとは言わんが、国内外の汗を想像はしてほしい。