自殺について

~死ぬ自由を持つという幸せと残される不幸~

2005/8/2
週末、図書館で新聞を読んでいると、TV 欄にお寺時代に一緒に勉強会をしていた ライターの友人(渋井さん)の名前があったので、ひさびさに ETV特集 を見た。 多発する集団ネット自殺を考察する番組であった。 番組の基調は、集団自殺は憂うべき現象であり、ゆえに、それを理解することで、 防ぐための第一歩を踏み出そうという趣旨だったと思われる。 前半、番組ではネット自殺を止めようと努力をする渋井さんの体験を回想していく。 結果として失敗するのであるが、その体験から学ぶことで「自殺を防ぐ方法」なる ものが見えるのではないか、という考えがシーンに込められているようだった。 が、そもそも番組は、自殺を"防ぐべきもの"として扱うことには疑問を投げない。 そこで私は萎えてしまった。 番組の中、自殺サイトに足を運ぶ人が「なぜ自殺を考えるか」という問いに対して 「生きる理由がない」「生きるのが面倒」と答える。 マスコミはしかし「だから死ぬ」という結論を自然に奇特なものと暗に位置づける。 一般的にそれは、荒れた家庭環境や挫折体験などの理由があって初めて発生するもの、 とすることで了解されるという筋書きができている。 が、生物としての生存欲を差し引いて考えたところで、彼らが死を選ばないことを 自然とする明確な理由が見出せているか? 否。 社会を駆動するために前提として必要な態度、道徳観念(人生は生きる価値がある。 国や子孫を繁栄させることはよい事だ、的なもの)、そういったものを番組では (おそらくはマスメディア全般)、語る以前の前提としてしまっている。 だが、それは万人にとって自然に感じられるものではない。 そもそも、万人にとって有効な生きる理由なんて存在しない。 それは、生きていく中で各個人の中に見出されるものである。 人の外に立つ理由を設定するのは、宗教の仕事になる。 しかしだ。番組の中で渋井さんは、あくまで個人から個人への感情で自殺を止めようと 動いたのだが、それはしかし、「ネット自殺を防ぐ者」という一般化された、道徳的な 力で動く存在として表現されているようにみえる(後半登場する自殺サイト管理者もしかり)。 彼らが実際、「自殺」自体を肯定しているのか、否定しているのかというのは見えないままに。 とはいえ、番組では、「彼らが死を選ばない理由」= 自殺を防ぐ1つの要素 を見つけている。 自殺志望者が、恋人のはたらきかけにより、実行をやめるというエピソード。 愛 情 という名の執着。 要は、この世に対する執着が発生すれば死なない という簡単な図。 人間関係を筆頭とする執着があるから、人は究極目的がなくとも生きてゆく。 (執着が消えると生と死の境界が消えるって、またしても仏教的な図だ・・・)。 普通に生きていくと、なんだかんだと執着ができる。 自分のことを考えても、親族友人のことや投資として長年勉強してきた歴史なんかが、 確実に、死を選ばせない力になっている。 だが、特別な理由なく、そういう執着が小さい人もいてよいはずだ。 死んでしまう人に対して執着があるから、私たちは身近な人の自殺を止めようとする。 社会の基底価値観を揺るがすから、私たちは他人の自殺を止めようとする。 だが、他人が、彼らが死を選ぶことを止める自然発生的な権利はない。 自殺サイトのような、自殺願望を形にすることを後押しするような場の存在を否定する権利もない。 自殺を止める行為もまた一つの執着であり、エゴであるということを自覚して浮き彫り にしていくような番組作りができる日はまだ遠いようだ。 それが遠いから、ある人達は生きることに失望する。 私は、自殺という行為自体にそれほど否定的な感情を持っていない。 これまでに私は、近しい友人二人(と多数の知人)を自殺で失った。 二人とも、この世界で長く一緒に生きてゆきたいと思っていた人だったから とても残念だったし、寂しかった。 しかし、あまり悲しくはなかった。 二人とも、少なくとも自分の意志で自分の人生の幕切れを選択できたのだから。 もちろん、違う人生の可能性はあって、それは彼らにとっても、私にとっても望ましいものであったりする。 しかしながら、可能性があることは分かっていて、選んだ道。 最終的な決断までが、彼らのこの世界での自己表現。 それは、傍目からどんなに愚劣に見えようとも、最大限に尊重されるべきものであると思う。 死ぬ自由があるというのは、それだけでとても幸せなことだと、私は思う。 生きる意志がなければすぐに死んでしまう自然界。 そんな自然界から著しくはみ出つつも、一員である人間。 生きる意志があっても食物となるために日々消される生命。 見えない場所での命の犠牲に支えられて生きる人間。 都市生活者としてそれが奇特で反感を招く考え方だとは知っているが、どうしても そういうレベルで人間を見てしまう私には、生きる意志のない人は、無理して 生きなくていい、と思ってしまう。 といいつつも、もし大切な人が「死にたい」と言ったなら、私は「死んでほしくない」と言うだろう。 大切な人がいなくなってしまうことで、自分がこの世界で生きる理由の一つが共に消えてしまうことを伝えるだろう。 それが、私の自己表現。
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