スマトラ島の思い出

~24時間の大きさ~

2005/2

6年前。
初めての海外一人旅3日目。
マレーシアのマラッカで、私は東京での友人と偶然に再会した。

2人は勢いで、乗客に旅人らしき人のまったく見当たらないフェリーに、
乗ることに決めた。
「インドネシアでも見てみようか」と、行き先の町の名前も知らずに。

チケット売りに
「スマトラでは今、華僑が憎まれていて、中国人が毎日どこかで殺されている。
おまえは中国人にも見えるから危険だ」
そういう警告を受けた。

平和な場 しか知らなかった私にその図は実感がなさすぎて、その言葉は
なんの抑止力にもならなかった。

今でも海賊が問題となっているマラッカ海峡を渡り、我々はスマトラ島の
ドゥマイというところに辿り着いた。


スマトラ島。

絶望的な経済状況。でも陽気な歌の溢れる島。
そこで出会ったインパクトのある人々。
その後、色々な場所に旅行したが、あの時のあの場所は私の中で未だ特別。

船着場を降りると、街が広がっているのかと思った。
が、そのようなものは見当たらない。何もない。

乗客は、待っていた人たちと散っていく。
公共交通も見えない。分かる言葉がない。

ここで、生まれて初めての環境、そこから来る感覚を味わった。

マレーシア人やシンガポール人に比して、インドネシア人は外見的に、
一線、自分から違うところにいるように感じられる。
そういう人の中に在ることがもたらす不安感。
(それは間違いなく、本能から来ているものと感じた)

加えて、地理的に、右も左も分からない、復路以外の道の先に何があるか分から
ないことがもたらす不安感。

そんな感覚に包まれてボーゼンとする我々に1人の人が近づいてきて、手を引く。
我々は、ついていくしかない、と根拠なく判断した。

なんの説明も受けずに車に乗せられてしばし。
着いた場所は観光業者のような(看板とかもない)ところ。
観光者である我々にとって嬉しい場所へと彼は連れてきてくれたのだった。

そこにいた人が、英語で、スマトラにある、ツーリストが行くような場所について
教えてくれた。

友人は、自分はこの環境にいることに耐えられないから、一泊して、
明日のフェリーでマラッカに戻る、と言った。

私も、マラッカに戻ることができたら、なんて気が楽なんだろう、と思った。

しかし、私は、彼と別れて聖湖であるトゥバ湖に行くことを選んだ。

2割の冒険心と、4割の好奇心。そして、せっかく来たのにもったいない
という、ちびた想い3割が、そうさせた。

バスを待っていると、何人かの退屈人たちが異人を見つけて寄ってきた。

その中に、靴磨きの子供が2人いて、さかんに靴を磨かせてくれと私にせがむ。
要求額は日本円で10円程度。
かわいかったので仕事をあげたいな、と思ったのだが、あいにく私は磨いて
もらうような靴を履いていなかったので断る。

が、しつこく言い寄るので、磨くのはいらないというジェスチャーをして、
お金だけ渡そうとした。

子供は受け取ろうとしたのだが、横に立っていた大人が、割って入り、
私から手からお金をさらった。
そして、2人に向かって首を横に振り、私の元にお金を返した。

彼は どんな気持ちで その行動を取ったのか。

文脈の中で、悪と呼ばれてしかるべき行動が生まれる。

私は文脈を読めなかった自分を嫌悪した。

その後、村を散歩。
大学生の集団と歌を歌ったりギターを弾いたりして時間を潰す。

夜行バスに乗る。
旅行代理店の人が私の行き先を運転手に通じると、彼は「俺に任せろ」
とばかりに私をエスコートしてくれた。
彼は私のことを「NAGOYA」と呼ぶことに決めたようだった。

バスは舗装されていないジャングルの中を通る道をぶっ飛ばす。
インドネシア人は、GARAM というあまったるく香る煙を出すタバコを好む。
走り出して間もなく、バスは GARAM の煙に満たされた。
窓を開けていてもかなり気持ち悪い。
後ろの坐席に座っていたイスラムの女性は終始、嘔吐を繰り返していた。

バスでは、私のとなりに座った10代の青年「テル」がさかんに話し掛けてきた。
数個の英単語と地名だけでよくぞあそこまで話が続いたものだと思う。

バスは途中、食事休憩に停車した。
私は現地のお金が尽きていたので、我慢しようとしたのだが、テルはお金は
俺に任せろと私の手を引く。

食事はスマトラ式。
まず、ものすごい種類の料理が目の前に置かれる。
その中から気が向くものに箸をつける(実際には手で食べる)。
食事後に食べたものの分だけお金を払う。
異国人にとっては最高の選択形式だ。

スマトラ食を堪能。
テルはディナーのすべてをエスコートしてくれて、お金も払ってくれた。

バスはその後もでこぼこの道を疾走。
途中、トイレ休憩に止まる。
闇のジャングルに向かって横並び、皆で放尿する。
スマトラ虎を想像の向こうに見ながら。

まだ日も昇らない朝、バスは止まった。
運転手はここで NAGOYA は乗換えだから降りろと言う。
そして、一緒に降りた人達に私の乗換えをサポートするように告げてくれた。

そして、テルを含めた数人が、ついででもなく、私に付き合ってくれた。
そこで一緒になったラクスという若い女性が、興味津々の目で
こちらを見ている。

テルが通訳。
どうしても写真を撮って送ってほしいという彼女と記念撮影。
スマトラでの指きりは、人差し指と中指をつけて立て、お互いの2つの
指を当てる動作になる。
かくして 破ることのできない約束を結んだりしているうちに、目的地へと
向かうミニバスが到着し、空は明るくなっていた。

10時間も一緒にいない中ですっかり親しみを覚えてしまったテルとも
SAYONARA


その後、目的地について私は適当な安宿に入った。

そこで家の借金の肩代わりとして働かされていた、17歳の少年と色々しゃべった。
彼から聞いたその人生と労働環境は想像もつかないもので、その時私はどうして
いいのか、どんな言葉を返したらよいのか分からかった。
その話は、滞在時の生活っぷりや、私が彼に店のドリンクを一杯おごった時の、
嬉しさの表現っぷりからは、作りものだとは思えなかった。



・・・と、ここで、徒然に続いた一連のスマトラ話をやめにする。
これから先の滞在の中でも、スマトラはたくさんのインパクトある体験を
くれたが、割愛。

この切れ目は、マラッカを発ってから24時間という切れ目。

最近の日常における平均的な24時間と、この24時間の差異の激しさ。
その中には「旅と日常の1日は違って当然」という一言では済ませられない
重いものが私にとっては存在している。

昨日と同じような今日があり、たいして重大でなかったはずの目標に
一歩近づいて、心身は一日分以上、老いて。
季節の花の香りや夕日を彩る雲の形が影響を及ぼさない日々の作業の中、
週末が来て、週末が去って、週末が来て、週末が去って。
ちょっとした自己投資をして、座禅をよくしていた自分が他人になって、
友人が知らない人と結婚して、たまに海外でローカルな動物を見たりして
いると年末が来て帰省して、ほんの少し年老いた家族に会う。

身の回りで起こっている事に同化できないままに慣れ、自分の生活までもが
対象化され、その中で繰り返される日常。
旅だった日常が、完全に別の物となって久しい。

私には、明後日に明日がどういう1日であったと評価したいのかに対する
はっきりとした答えがあって、そのために多くのものが犠牲にされても
いいと感じている。

ということを、少なくとも1日の終わりに1度は思い出さなければ、
いけないのだと自分に言い聞かせる。
そうしなければ、明日目覚めることの意義すら問わなければなくなって
しまう。

そうさせる一つの要因が、スマトラの思い出。
24時間の価値。
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