科学とはなにか

わたしはどこからきてどこへいくのか

それは われわれ一人ひとりが同じように抱く 測りがたい大いなる問いである

科学に その答はない

                          E.シュレーディンガー

 

科学を哲学

哲学の好きな科学者は,あまり多くない。特に実用を目的とする工学方面の人達はその傾向が強い。「そんなことを考えてなんの役に立つのか?」というのが彼らの言い分だろう。確かに哲学は技術のように目にみえる形での応用はなされない。しかし、生きる姿勢として常に生に関わるという面では,生への影響力はそれ以上の効力がある。もちろん、それは自分の渇望から実存に関わるものとして学んだ人の哲学に限られ、授業で覚えさせられたり、ファッション的に身につけたりした哲学にその力はないが。

理学部を中心に、哲学を好む科学者もいる。いずれも真理の追究という共通項で結ばれているからであると思われる。しかし、科学それ自体を哲学する科学者は、なぜか非常に少ない。科学を哲学的に考えたとしても、科学技術が世の中に与える影響とか、その理論が描き出す世界観についてなどである。純粋に科学そのものについて哲学する人は本当に少ない。これは、おそらく“科学”が科学者にとって当たり前すぎるからであろう。“灯台下暗し”のこの現状を、科学者を長いこと志し続けた私が“脚下照顧”してみたい。

 

科学という信仰

私は大学で、長い間真理への絶対の道であると信じて追いかけ続けた科学というものに疑問を持った。それは、地道な努力を要する物理に嫌気がさしたから(要するに挫折)という消極的な理由からではない。それが科学というものについてきちんと考えてみようと思うきっかけになったのは事実であるが。

人というのは、なにか精神的な支えを必要とする生き物である。その支えとして選ぶものは、人それぞれで、キリスト教であったり共産主義であったりするのだが、その中に、科学を加えることもできるだろう。科学を信仰していると呼んで差し障りないだろうと思われる人達は、かなり多い。一般的に科学と宗教は対立するものとみなされているが、実は人との関わりで見ると、ほとんど同じものなのである[1]

科学者であっても、科学について明確に理解している人は少ない。自分が信じてその手段にのっとって日々の研究を進めているのにも関わらず、科学そのものに対して無頓着な人が多いのは、奇妙な事態ではないだろうか。以下、統一教会を脱退した山崎浩子氏の言葉であるが、ちょっと読んでみて頂きたい。

 

 「統一原理をあまり理解していないのに、がっちり思考回路が組み立っていたことにびっくりした。・・・このことは、口で説明しても紙に書いても、きっと分かってもらえないと思う。本当のところは脱会したものにしか分からないことだ。」 (「愛が偽りに終わる時」 山崎 浩子 文藝春秋社)

 

この気持ちを、科学教を脱退した私はわかるような気がする。人は、何か自分が支えとするものを決めると、それに疑いをかけるのが恐くてできないのである。それを失ってしまうと、人は支えをなくし、とても不安定になってしまうからである。しかし、他人が支えとしているもののおかしな点、矛盾などはよく見える。それでイデオロギー間の和解は難しく、古代から現代までの間ずっと、闘争が絶えないのである。お互いが自分のことを顧みずに相手の批判ばかりしていては、そこに和解が成立するはずがない。だからここでは科学信仰者も一度外部に立って、中立的に科学というものの性質を眺めてみて欲しい。

私が宗教よりも科学に惹かれた理由は、宗教はさほど正しいようには思えず、本当かどうか分からないことを信じなければなにも始まらないが、科学は信じようが信じまいが、超然として本当であると言えるところにあった。真理とはそのようなところにしかないものだ、と思うのはごく自然であろう。

実際、科学が人間の活動の中で最も客観的な営みであるということに対しては、何の異論もないはずである。そこから、科学絶対主義、科学信仰のようなものが生まれてくるのであるが、その科学が実際に客観的なのかどうかこれから検証してみよう。

確認しておいていただきたいのは、私はこれから“科学それ自体”を批判しようとしているのではなく、“科学のあり方”に疑問を投げかけようとしているということだ。人は、それまで自分が絶対としてきたものが実はそうではないと判明した時、その反動で拒否反応を起こし、それに関するすべてに否定的になってしまうということをしばししてしまうが、しばらくすればその正しい位置づけが見えてくるものである。私にも科学の収まるべき場所が昔よりは見えてきた。科学には科学の素晴らしさがあるが、絶対のものでは決してないのである。

 

科学で分かること

科学で分かること、分からないことを、きちんと理解しておくことが心構えとして科学者には必要だと思われるが、まず現代物理学を築き上げたメンバーの言葉を見ていただきたい。

 

「科学の世界は、『意識的に観察し、感知し、感じる主体』とのつながりで初めて意味を持つものを、すべて欠いている。・・・世界の意味や目的に関するわれわれの問に対して、科学的研究が完全に沈黙していることはきわめて不快なことである。」

    E.シュレーディンガー (波動力学の創始者、シュレーディンガー方程式)

 

 「科学的手法によってわれわれが知りうることは、事実が互いにどう関係し、どう制約しあっているか、それのみである。」

    A.アインシュタイン (言わずと知れた世紀の科学者)

 

「科学には自然の究極の神秘を解くことはできない。それは、つまるところわれわれ自身が自然の一部、われわれが解決しようとしている神秘の一部だからだ。」

    M.プランク (量子仮説の提唱者、プランク定数)

 

「もし我々が科学理論の恒久性に多くをかけてきたのだとすれば、科学理論が終局性を有していないということがきわめて重大な制約となるだろう。」

    A.エディントン (相対論の最初の理解者、日食時の観測で重力レンズを検証)

 

「合理的な陳述によりなされた命題が、人間の理性の唯一可能な前提であるとすべきではない。・・・神学者に対して、わたしは敵対的信徒という原形的関係にある。」

    W.パウリ (ニュートリノの予見、パウリの排他律)

 

「物理学においては、物体、物質、エネルギー等の究極的本質という問題を保留しておくことによってのみ、こうした概念を使って記述する現象の個々の特性を理解することができる。そしてその理解だけが、われわれを真の哲学的洞察へと導く可能性を有している。」

    W.ハイゼンベルグ (行列量子力学構築、不確定性原理)

 

「物事を観察する基本的な姿勢は二つある。一つは、『対象を理解しようとする批判的で合理的な視点』、もう一つは『全体性を取り戻そうとする神秘的で非合理的な視点』である。」

    P.ディラック (量子力学を発展させる、ディラック方程式)

 

 このように、物理の教科書に名を連ねる偉大なこれらの科学者が、そろいにそろって科学について共通した自分の考えを持っているということは、偶然の一致ではない。彼らは皆、科学の重要性を認識しながら、同時にその限界も認識していた。では、その限界とはどういったことなのだろうか。このことについて見ていこう。

 

科学の領域

まず、科学の扱う領域というものについて考えてみたいのだが、これが実はなかなか難しい。私達は、これは科学的だとかこれは非科学的だとかいうことを、深く考えることなく使っているが、どういう理由でそういった線引きをしているのだろうか.

このような問題を議論する専門分野がある。科学論とか科学哲学とか、そういった名前がつくところであるが、そこでは実は科学と非科学の境界線は明確にされていない。というよりも、線引きができるかできないかでまずもめている。そして、もし線引きができるのであればどこで線引きをするのか、ということでまた議論になっているのである。ここでは、より一般的な「線引きできる」という立場で話を進める。もし前者の立場を取ると、“科学”ということについて語ることさえ意味がなくなってしまうからである。

ところで、“領域”というものは、どのようにして決まるのであろうか。国の領域を定めるというような話であると、「約束事によってその国家政府の力が及ぶ範囲となっている場所」とでも定義すれば良いだろう。これが科学の場合は、「科学的手法が適応することのできる領域」となる。つまり、科学の領域は何を扱うかではなく、何を扱えるかで決まるのである。したがって、科学的手法とはなにかが決まれば、自ずと科学の領域が定ることになるはずである。

科学的手法とは何かについては、デカルトの「方法序説」に始まりたくさんの人々の主張があるが、現在一般的には「潜在的に公的となり得るか、もしくは反復されうる経験やデータへの言及を通して、仮説を実験的に検証する知識獲得の手法」とされる。もう少し簡単に言うと、「同じ条件を作って実験すれば、誰でもそこから同じ結果をとりだせるような方法でデータや経験を集め、そこから帰納してゆくやり方」ということだろう。これはとりあえず納得のいく定義ではないだろうか。

もうひとつね科学の定義として、「それに“反証可能性”があること」を持ち出す場合もある。これは、「どんなことが起ころうとも正しいとされる記述は、科学ではないとしよう」という見方である。たとえば、「世界はすべて神の意志の現れである」という記述は、この世界で何が起ころうともこれひとつで説明できてしまう(これをトートロジーと呼ぶ)。このように、この前提を認めてしまうと、なんの反証ができなくなってしまうというようなものは科学ではないとしようというのがこの主張である。これも納得がいくのではないだろうか。

ここではひとまず、前者の姿勢をひとまず基調としたい。そして、これがどういったものであるのかということを、次の例をもとに展開させてみる。

 

より少なく、より正確に

ある日、少年Aはたまたま、同じ高さから同時に物を落とすと重い物は軽い物よりも早く地面につくということに気付きました。落とす高さや物の重さををいろいろ変えてみても、結果は同じ(反復した)。Aはそれを通して、重いものは軽いものより速く落下するということに確信を持ちました(仮説立てた)。Aは、「反復されうる経験やデータへの言及を通して、仮説を実験的に検証」できたことは、科学的理論になることを知っていたので、友達に見てもらったり、友達にもやってもらったりしましたが、結果はやっぱり同じ(検証した)。かくして、少年は「重い物は軽い物よりも速く落下する」という法則を作り、それを「Aの定理」と名付けました。

 

これは原始的ではあるが、科学的手法を正しく使っていると言って良いのではないだろうか。大人が聞いたら笑ってしまうだろうが、少なくとも少年Aと友達の間ではこれは科学的手法によって立てられた法則として問題ないだろう。反証可能性もある。重いものが軽いものより速く落下しない状態を提示すればこれは反証できる法則である。

私達はこの法則が間違いであることを知っているので、彼にいろいろと言いたくなるであろう。「もっと高いところからある程度以上の重さの物を落としたらほとんど落下速度が違わないことが分かっただろうに」とか、「空気抵抗という要素を抜かして考えている」とか。しかし、残念ながら少年もその友達もそのようなことは考えつかなかった。

現在私達は、落下する物体には重力と空気抵抗がそれぞれ別に、物体の落下に力を及ぼしているということを知っている。このことは、空気抵抗のない状態(真空状態)を作って実験することによって検証できる。真空中では物体に働く力が重力だけの時には重さに関わらず同時に落ちる。

では、私達が「Aの法則」を“間違い”としたのはなぜだろうか。それはその法則の元でより多くのことを、より厳密に説明できるのが優れた法則だとされているからである。「Aの法則」は、「空気が存在する状態で、ある範囲の形態や質量を持つ物体が落下する」という狭い状況でしか適応できない。しかし、私達の知るニュートン力学(万有引力の法則を含む)では、それ一つで様々な状況の物体の落下も説明できるだけでなく、惑星の運動などもその法則で説明してしまう。また、「Aの法則」はかなりあいまいで正確な運動の予測はできないが、条件を設定してやればニュートン力学にはそれが可能である。だから私達は「Aの法則」を“間違い”とした。

ところが、実際には彼の理論は“間違い”ではない。ただ、劣っているだけである。確かに日常的な環境では「Aの法則」は適応できる。だから彼の世界の中では正しいし、科学を名乗ったのは間違いでない。とはいえ、間違いではなくとも、「Aの法則」を包含したニュートン力学を知っている私達には必要の無いものであることは確かである。

ところで、もし「Aの法則」を科学でないというのなら、古典力学の出発点で誰もが科学であると認めるニュートン力学も科学ではなくなってしまう。なぜなら、ニュートンの運動方程式は相対性理論が成立した今では、厳密には正しくないということが分かっていて、相対論的な運動方程式に包含されてしまうからだ。「Aの法則」とニュートン力学の関係はニュートン力学と相対性理論の関係と「後者の方がより厳密で広範囲に適応できる」という点で同じなのである。

そう考えると、「Aの法則」は紛れもない科学的な法則であるということが分かっていただけるはずだ。

 

この議論での科学に関する結論は二つである。

 

 “科学”の名は、正しさに付けられるのではなく、方法に付けられるものである。

“科学”と名付けられたものの目標は、それによってより正確により広範囲の世界を表すことである。

 

この番号は科学の要素として後で引用するので、覚えておいていただきたい。

 

ここまでの議論で、科学の限界はすでに示されてしまった。科学はどこまでいっても絶対的真理には到達しえない(そもそも到達したかどうかは誰にも判断できないが)。しかし、ある限定した領域、状況においてはいつでも真理に到達している(「Aの法則」のように)。

 

ところで、もう一つ科学の要素を付け加えて③としておこう。それは②の方法論ともいうべきもので②ほど根源的な要素ではないが、科学の還元主義的側面である。

 

 現象を出来るだけ単純な構成要素に還元して、現象のメカニズムはその相互作用で説明する。

 

これはヴィトゲンシュタインの「論理哲学論考」で説かれている論理的思考法と同じものである。先の例で見ると、落下する物体にかかる力を重力と空気抵抗という要素に分割し、その相互作用によって説明するということである[2]。ここでは詳細を省くが、実際には空気抵抗はさらに細かい要素へと分割することができるので、ここで分割は終わりではない。

 

  反証可能性について

ところで、反証可能性の存在を科学の定義として使おうとする考え方が生まれたのはなぜだろうか。反証可能性のない理論が複数個対立したときに、どの理論を取るのかを議論できないという問題がまずある。また、たとえそれが一つだったとしても、半焼可能性のない理論はそれ以上の発展が期待出来ないという側面を持つ。なにせどんな反論も受け付けないのであるから、それ以上その理論を展開させる必要がない。この反証可能性を基準とするやり方は、何かある理論を盲信して、そこで更なる追究がとまってしまうことを防ぐために現れたといってよかろう。

注目して欲しいのは、この科学の定義でも、その理論が正しいか間違いであるかではなく、その形式によって決まるということである。最終的な真理の形は反証可能性の無いものかもしれないが、それはここでは関わらないのである。だから、その場合においては、真理は科学の形態ではないということになる。もっとも、それが本当に真理であるかという判定が、誰によってどのような基準でなされるのかといったところには多くの問題が潜んでいるだが…。

 

心理学は科学か?

さて、次に先ほど定義された科学の基準から見て心理学は科学といえるのかを考えてみよう。「大学では文系と理系の間ってことになってるし、やっぱり科学なんじゃない?非科学的なことだったら大学では扱わないだろうし」というのが一般的なイメージかもしれない。しかし、心理学は科学ではない。なぜなら、心を扱う時には、物を扱う時のようにまったく同じ条件を作り出して実験することが不可能となるからである。ある人とまったく同じ心を持っているという人は、一人としてこの世界には存在しないし、同じ人にしても、時とともに心の状態は移り変わってゆく。心が関わる限り、同一条件による検証は不能である。同一にするべくは、外的な環境だけではないのだ。

こういったことを考えると、科学が扱える分野は、心が関わらない、物のみを扱う分野に限られることが分かる。だから、心理学をはじめとした文学系統、社会学なども科学ではない。ちなみに、生物学の中でも行動実験の周辺などは、微妙なところである。扱う生物は、明らかに人間よりは本能的、つまり機械的(物的)な行動様式に見えるが、その心の形態はまだ分かっていない。サルなどは、心理学の分野で研究されたりするが、ゾウリムシは生物学で物と同様の扱いを受ける。その境界がどこにあるかは不明である。

ここで私は、科学の定義にしたがって心理学は科学でないと断言してしまったが、一般には心理学は1920年に科学になったといわれる。それは“行動主義”の登場した年である。この主義は心をブラックボックスとみなして、それに与える刺激とその反応(行動)のみを見て解析しようというものである。行動主義は、心理学を科学にするべく、心を物(とても複雑で曖昧さを持つ)として扱う試みである。確かにそうみなせば、科学と呼んでよかろう。しかし残念ながら、心へのアプローチとしてこの姿勢はあまり有効なものではなく、哲学的な意味の方が影響としては大きかった。

もう一つ、心理学を科学にすべく登場したのは“構造主義”である。これは意識をその構成要素まで分解して捉えようというやり方である。構造主義は科学の要素③を追究するものとして登場したが、科学の必要条件である①の方法を持たないので、科学的姿勢を持ってはいるが、非科学と定義されよう。

この他にも、心へのアプローチの仕方は多数あるが、ゲシュタルト心理学などは、分析還元的な科学の姿勢を追究せずに、全体として心を捉えようと試みている。しかし、大局的に見れば認知心理学(ここでは、行動主義ではブラックボックスとみなした心を、高度な情報処理機関として扱う)の登場など、心理学に科学的な姿勢を入れる試みはさかんに行われようとしているといえよう。

経済学の分野でも、なんとか自分の言説に科学的体裁を持たせるために数学を導入しようとする努力もあった[3]。しかしその結果、確かに経済学は科学に近くはなったのかもしれないが、内容的には貧弱になってしまったという経緯もある。もちろん、方法を見直した後、しばらくは内容に乏しくなってしまうということは当前でもあるのだが(物理学で言えば天動説から地動説に変わった時などは良い例)、このケースにおいてはそればかりではない。

 

科学はどこまで客観的か

ところで、なぜ学者は皆そこまでして学問が科学的であることを求めるのだろうか?

それが客観的な真理を追究する唯一最高の手段だからであろうか?

実は、科学的手法に基づいた理論が優れているという社会的な風潮にのっているだけではないのだろうか?

ということを考えるために、科学的手法により得られたものが本当に客観的な世界理解への道なのかということを次に検証してみよう。

科学は物だけを扱い、人それぞれに違う価値観や客観性を曇らせる人の五感による観察の類を排除する。人でなく機器を使って観測することにより、昼間の太陽よりも夕方の太陽の方が大きいなどというような考えはなくなる。観測に関する限りは曖昧さは取り除かれ、公平である。

F.ベーコンは「自然を理解するには、知性を正しく使わなければならず、すべての先入観を捨てて実験や観察を行い、自然を経験的に知らなければならない」と言ったが、それは現在においても科学の基本的姿勢である。実際の彼の探求姿勢は独断的で、この自らの掲げた理想とは程遠いものであったらしいのだが、観察手段が五感から機械に移った今、先入観の入る余地は少なくなった。ここでは、少なくとも科学的に得られるデータは100%客観的と仮定しよう。

では、データをどこから引き出してくるか決めたのは誰か?

そして、そのデータから帰納して仮説を立てるのは誰か?

また、その理論が真であるか否かを判定するのは誰か? 

 

人間である。そして人間には心が備わっている。心は科学的手法では扱えない。

そこに大きく主観が入ってくるのである。過去から現在までそれは変わらない。科学者のすべてがそうであったように、アインシュタインもその一人であった。「宇宙は静的である」「神はサイコロ遊びをしない」の信念のもとに悪戦苦闘した彼も、主観によって動いた人だったのだ。

天文学の分野で超光速を示す観測結果が得られた時、天文学者達は何をするか。まずもって、観測(得られたデータが本当に正しいか)を疑う、またはこじつけと呼ばれても仕方のないような説明を考えるのどちらかである。今ある理論を絶対視し、「相対性理論では超光速を認めないから」という理由でそういったことをするのであれば、彼らは過去において天動説が破綻しないようにつじつま合わせをした天文学者達と変わらないのではないのだろうか。さらに言えば、教会がダーウィンの進化論の証拠となる過去の生物の化石の存在を「神が我々の信仰を試すためにおいたダミー」と説明付けたのとも大差はない[4]

他にも、ウェゲナーの提唱した大陸移動説に反対していた学者達は、それを支持する証拠が現れるたびに、自らの説でその証拠を説明しようと、必死にいろいろな概念を導入して抵抗したといったこともあった。

以上のことから、たとえ客観的なデータが取れたとしても、そこから客観的な理論が出来るかどうかは別問題であるということが分かっていただけたであろうか。かくして、科学的手法は実際に運用される時には客観的にはなり得ない。ところで、なんでもかんでもその理論に取り込んで説明が付けられる理論というのはトートロジーと呼ばれ、定義によってはそれは科学ではなかったということを覚えておられるだろうか。

さて、ここまで科学の世界に入り込む主観について話してきたが、次に科学のもっと根源的な部分に入り込む主観を示そう。

 

科学が目をつむるところ

私達が、科学的な知識の全くない未開の土地へと投げ込まれたとする。そこでは、例えば雷とは雲の上で雷神が暴れているために起こるとされている。さて、彼らに電気や電荷というものを教えるにはどうすれば良いのだろうか。

これには非常に困ってしまうであろう。電荷というものを見せることもできないし、現象をその概念によって説明したところで「それで、一体全体“電荷”ってのは食べれるのかい?」と言われるか、もっと悪ければ狂人扱いされてしまうのがおちであろう。そこに電気製品を持ち込めたとしても、彼らを私達の住む世界に連れてきても事情は同じである。私達は、自らが常識とする“電荷”とはなにか、という問題に対する説明をそれを常識としない人に対しては出来ないのである。

そこで私達はこう思う。「まったく非科学的な世界に住む奴等と付き合うのは疲れるよ。こんなに分かりきったことも理解できずに、迷信にしたがってるんだから」と。

では、物理の知識を持つ私に改めて説明してほしい。「電荷っていったい何だ?」

その問いを受けて立った(私の内なる)物理学者は、科学大辞典に載っているようなきちっとした定義を教えてくれた。 (以下、仮想対談)

 

物理学者 「“電荷”とはあらゆる電気現象のもととなるもの。それは、クーロン力によって決定される。」

  私  「それでは、その電気現象である“電場”っていうのはなに?」

物理学者 「“電荷”の空間分布やその運動状態により規定される空間に存在する場。」

 私  「あれ?“電荷”っていうのは“電場”を用いて説明されていたのに、その“電場”はというと“電荷”で説明されるの?」

物理学者 「分かった分かった。それでは、“電場”とは“電位差”の勾配であるとしよう。」

 私  「もう次の質問は予想できるよね。その“電位差”ってのはなんだい?」

物理学者 「“電荷”によって…いや、“電場”によって・・・でもなくって・・・。」

 

この後、物理学者は循環から脱け出すために“電場”の強さを定義する“力”を持ち出してきた(F=)が、“力”は“時間”と“長さ”で説明され、そこから一般相対論の世界まで行ってしまう。それでも、どこかで必ず電荷と電場との間で起こったような循環が起こる。まあ、言葉や記号を使って議論しているので当然といえば当然なのだが。

 

物理学者 「あー!もうこんなくだらない議論はたくさんだ! お前も物理学を学んだのなら、電荷が何かぐらい知っているだろう?! あれだよあれ!。」

 

物理(つまり科学一般でもそう)とはこのような構図なのである。理論の中でお互いのことを定義しあっているのであるが、どこにもそれ自体が本質として何か、という問題には答えないのである。つまり、その理論が成り立つためにはどこかで人が「これはもう説明抜きに“あるとしよう」と決める部分(アプリオリ)が必要なのである。ここでは電荷がそれであったように。しかし、物理学ではそれを認めたがらず、その存在については触れないようにしている。なぜなら、そこには科学のもっとも嫌う主観の入り込む隙間があるからだ。

どこかで「これはもう知っている、説明いらん」という意識に関わる問題が入るのであるから、その他の部分でどんなに理想的に事が進んでも、本当に科学(物理)が人間から独立しているとは言えないのである。そして、私達が原始人に電荷とはなにかを説明できない原因はまさにそこにある。私達が“常識の一言に片づけてしまうそれを、私達は、実在するということを知っているのではなく、その存在を信じているだけなのである。そして、それを信じることの出来ない人には、どうやっても分からせることのできないものなのだ(この辺りには、宗教臭がぷんぷんしている)。

 

科学と迷信の違い

しかし、もちろん私達がまったく無根拠なものを盲信しているというわけではない。もし“電荷を信じたならば、それにより多くの現象に説明がつくのである。また、それを使って物事についての予測を立てることが出来たことや、技術に応用することが出来たことは、それが単なる盲信ではないことを裏付ける。では、本当の盲信、迷信とはなんなのか。それを考えるためにまた原始人の話に戻ろう。

もし、原始人が雷の説明に雷神を使った事に対して私達が「じゃあその雷神ってのはなに?」と聞いた時、彼らが「雷を起こす神さ」と答えたらどう反応するだろう。内心「あっちゃー」と思いながら「で、その雷神ってのは本当にいるのかい?誰かがそれを見たのかい?その存在にはなにか根拠のあるのかい?」と質問攻めを食らわせたくなるであろう。原始人答えて曰く「そんなの分からないけど、雷神様がいるとするとすべてがうまく説明つくのさ」

「・・・あっちゃー!!」

この話、笑い話ではないということにもう気が付いた人もいると思う。この話において“雷を“電場”に、“雷神”を“電荷”に、“原始人”を“私達”に置き換えてみると、なんと我々の科学も迷信と呼んでいるものとまったく同じ構造であることが浮かび上がってくるのである。私達の科学は単なる迷信ではなかったのと同様に、彼らの信じた“雷神”も単なる迷信ではないのだ。では、両者のなにが違うのだろうか。

この場合には、「擬人的な神という、意識を持つものを想定することによって、反証可能性を無くしている」という言い方も出来るが、それでは今では迷信とされる錬金術や、過去、物が燃える時に出る燃素とされたフロジストンとかいうものとの差異の説明が出来ない。

科学の条件①で見ると、“存在自体”の検証法というのはなく、その在るとしたものの性質の検証法しかないので、これにより両者の間に明確な線引きをすることは出来ない。したがって、問題はそれを認めた場合の世界説明への有効性、科学の要素②になる。これに照らしてみると、先ほどの話に明確に区別がつく。“電荷”という概念はそれ一つを認めることによって多くのことが説明できるようになるが、“雷神”という概念が説明できるものはたった一つ“雷”のみである。昔には、自然現象の個々にそれぞれ神を割り当てたりして説明しなければならかったが、今では例えば雷と静電気は同じ現象である事が説明できるようになっている。

このように、要素②に照らしてみると、科学と迷信と呼ばれるものの差異がはっきりする(要素③による違いもあるが、説明はいらないだろう)。だが、その差は私達が認識しているほど大きく離れたものではない。神話や錬金術[5]は、その当時には“迷信”だったのではなく、私達が現在“科学”と呼んでいるものと同じ形態を持っていたものだったのだ。そして後になって、もっと良く物事を説明できる概念が導入されて、それが結果的に違っていたと分かっただけである。

それらのものを“迷信”、“非科学”とするのであれば、現在私達が“科学”とするものも、未来人から見れば間違いなく、単なる“迷信”になってしまう。私達が実在として疑わない電荷、更には原子や素粒子といったようなものはすべて、実在ではなく物事の説明のためにたてられた概念にすぎない。本当に実在するものは、時とともに変化しないが、概念はいくらでも変遷してゆく。だから、フロジストンなどの概念は消え去っていった。中世ヨーロッパにおいて多くの人にとって実在であった概念“神”も、死んでしまった(もちろん神というものを単なる概念としたことに反感を覚える人もいるだろう。しかし現在、かつてのように多くの人が実在として神を感じていはないという事実は否定できない。敬謙な宗教者が今、神をどう感じているかということは、ここでは問題としていない)。同様に、原子といった概念が消え去る日も当然ありうる。

こうして考えてみると、私達が原子などを実在として信じているのと同じような確かさで、神を実在と信じる人達がいても、まったく不思議ではない。というよりも、実際そうなのだ。私達には想像できないことであるが、未来にはきっと、過去の人々が原子の実在を信じていたということを想像できなくなる日がくるであろう[6]。私達は、自分達が今歴史の中の一番新しいところを生きているという事実のために忘れがちになるが、私達もまた長い歴史の中の1ページを飾るに過ぎないのだ。

 

科学の営み

科学にも主観が大きく関わってきていることは伝わったであろうか。こうしてみると、科学というものに関してもっとも大切なものは、要素②であると言えよう。しかしこれは、もともと科学が、自然現象を理解したいという気持ちから生じたという経緯を見れば、当たり前のことでもある。そのために私達はいろいろな概念を導入しようとするのであるが、いったんそれがうまく機能すると、その概念は世間に認められ“常識”となり、心の中で実在性を帯びてくる(ここで「心の中での実在性」と言ったのは、本当の実在性に関して述べてしまうと、カントやヒュームや、その他多数の哲学について触れなくてはならず、横道にそれてしまいそうだからである)。

これまでの話を総合して、“科学の営み”とはどんなことか、以下にまとめた。

 

「科学とは、“常識”つまりアプリオリとなる概念を作ろうとする試み、自然現象を私達の間でアプリオリとなったもの(もしくはしようとしているもの)に還元して、その関係性により世界の事象を説明しようという試みである。そのアプリオリは少なければ少ない程良い」

 

 気をつけて見てみると、この1文目は、ほぼすべての体系の原則、言語の原則でもあることが分かる。そのことは、科学を相対化させる。

概念と常識

科学という営みがどのようなものか分かったので、その例を一つ挙げて少しそれについて考えてみよう。ちょっと次の話を読んでいただきたい。

 

1848年、ニューヨークの北のハインズウィルという村で、越してきたばかりのフォックス家の幼い姉妹の部屋でコツコツという音が聞こえることが評判になった。その音は質問に対してもイエス、ノーを答え、のちには音の数でアルファベットを表現して単語を作るようになり、この霊との交信が行われた。この霊は家を離れても姉妹についていき、姉妹は霊媒として有名になり、各地で実演を公開した。この出来事が近代心霊術の始まりといわれる。 「人はなぜ騙されるのか」 安西 育郎 朝日新聞社)

 

後に、このケースに関してはトリックであったことが分かったのだが、同じような現象は世界に広く見られ、その中には明らかにトリックでないものもあった。これは、私達がこっくりさん”という名前で知っている現象であるが、これは今では神秘的な現象ではないということが判明したということになっている。以下はこの話の結末である。

 

1852年、生理学者のカーペンターがこうした現象を、意志と独立した筋肉運動を方向づける暗示の影響として論じたが、翌年には、有名な物理学者のファラデーが実験的に研究を行って、同じく無意識の筋肉運動であると結論を下している。また、フランスでもこうした心霊現象の歴史的、実験的な研究と批判が行われ、これらが無意識の働きによるものであることが論じられた。 

 

「これで“こっくりさん”現象は、科学的に説明できることであることが判明しました。めでたしめでたし」というのが科学者の言い分で、一般的な解釈となっている。しかし、いったいここで何が起こっているのであろうか。非科学的な“心霊現象”というものを、科学的な“無意識”の働きの中にまとめることができた、ということであるが、では“心霊現象”は本当に非科学で、“無意識”は科学なのであろうか?

 先ほどの話で出たように、“無意識”という概念を含む心理学は、実際には科学とは呼べない。それなのになぜ学問になっているかというと(ちなみに大阪大学では心理学は人間科学部に属している)、極めて多様に見える心理を、少ない前提の下に説明しようという重要な科学の姿勢②を持っているからである。「“無意識”というものがなにかということ自体を、科学的手法では証明できなくとも、それをアプリオリとすることで、いろいろな説明がつけられるのだから良いではないか」ということなのであろう。“無意識”は実際には科学の領域をはみ出ている。しかし、それは電荷の話ででた、「もうこれは知っている、説明いらん」としたものの非科学性とそれほど大きな違いはない。

  もう一つ、“心霊現象”と違って、心理学が大学などで学ばれている理由として、その体系が世間における“常識”の座を勝ち取ったからということが挙げられよう。しかし不思議なことに、それが“常識”となると、なぜか科学ではないはずの“無意識”という心理学上の用語が一般にはいつの間にか科学と認識され始め、さらには実在性を帯びてゆくのだ。

 

話を戻すと、歴史がもし心霊現象”をアプリオリ、常識”(これは後に科学的”に化ける)として、無意識”を非常識”(非科学的)としていたら、どうなっていたか。無意識”はこの話とは逆に心霊現象”によって説明され、それによって無意識”に科学的な説明がつきました、という結論がつくのではないだろうか。世の中には、心霊現象”を認めることによって説明がつけられることが、無意識”に負けないくらい多いであろう[7]。それが、こじつけになってしまうことも多かろうが、精神分析をかじったことのある人なら知っているように、無意識”による出来事の説明がこじつけに感じられることも多いのである。さて、もう一事例。

 

  1775年 南ドイツ、祈祷による病気直しで名を馳せた祓魔師ガスナーは、時の権力からの異端審査を受けた。審査団の招いたF・メスナー博士は、公開実験でガスナーと同じような現象を起こして見せ、「彼は決してハッタリ屋ではなく、ただそれと知らずに“動物磁気”によって患者を治していたのだ」と説明した。その頃、“動物磁気”は、正統科学の概念であった。しかし、今ではそういった現象は“動物磁気”ではなく、催眠により引き起こされるものと理解されている。

 

  現象自体は変わらない。しかし、それを説明付ける概念は、時代とともに移り変わってゆく。どんな概念が“科学的”であるかは、その時代次第である。催眠の世界は、量子力学などと比べれば“科学的”からは遠いところにあるように、私達には感じられる。だが、霊が憑依した、しないの世界よりは科学的なものであるように感じられよう。このように、少なくとも私達の感覚における“科学”と“非科学”の境界は、不明瞭なものである。

「これ一つを認めるとそれだけで多くのことを説明できる」という②の要素だけで①の方法が伴わなければ、定義的には科学の理論(法則)にはならないのであるが、少なくとも学問にはなる可能性を秘めている。②の要素さえ満たしていれば、その対象は特に限定されず、それは物を扱う方程式であろうと、心を扱う元型[8]であろうと構わないというのが、学問の世界の現状である。では、なにを説明に使うのを認めて(無意識”など)何を使うのに認めないか(心霊現象”など)は、どうやって決まるのだろうか。まず、現在アプリオリとして広く認められているものを検証してみよう。

 

現在アプリオリとされているもの 

 1 数学的な記述

数学とは関係性のみを表す、純粋に抽象的なもので、この世界に直接その記述と対応するものがあるわけではない。数学的に記述された方程式は、曖昧さが排除されていて、普遍性を持つというところから、純粋科学的なものとされているので(実際に、科学的であるということは数学的であることだとする見方もあった)、さしたる議論の余地もなく誰もがそれが科学の出発点、アプリオリとなることを認めることであろう。

量子力学の出発点であるシュレーディンガー方程式は数学的に記述されたアプリオリの典型であるが、それ自体を証明することは他の方程式と同様出来ない。その方程式によって関係づけられる概念を前提とすることによって自然現象をうまく説明することができるようになるということで、それはアプリオリとして認められた。そして、それは量子力学における絶対的前提となっている。

このことは、数学的に記述された方程式でも、真に完璧なものかどうかには目をつむって使われ始められるということを指す(ちなみに、シュレーディンガー方程式もニュートンの運動方程式と同様、相対性理論により修正されディラック方程式となっている)。しかし、それはどうしようもないことで、「そのことにこだわっていたのでは話が前に進まないので、とりあえず今の段階での観測と一番合う理論なのだから、この方程式は正しいと仮定しよう」という暗黙の了解が科学者の間にはある(ただし、その自覚が常に科学者にあるのかどうかは疑問である。もしこの了解がないのであればその科学者は信仰者と等しい)。

ところで、数学はそれ自体の記述で自己完結することが可能である。ユークリッド幾何学は、ある公理系から出発して純粋数学的な世界を形成するが、一般相対論の空間の歪みという概念を持ち出すまでもなく、実際の世界とは符合しない。現実と近い対応関係を見出すことは出来るとしても、それが現実には存在しない世界を構築していることは確かである。

18世紀にJ.ヴィーコという学者は「我々が幾何学的事柄を証明するのは、我々がそれらを作っているからである。もしかりに我々が自然学的事柄を証明できるとしたら、我々はそれらを作っていることになる」と言った。物理学など、科学の世界に登場する数学は、現実との対応関係を持つものとして使われているが、実際のところがどうかといった証明は誰にも出来ない。

先ほど、数学理論は自己完結が出来るということを言った。しかし、完全に整えられている数学理論であっても、その理論の無矛盾性をその体系の中で証明することは出来ないとする定理がある。「ゲーデルの不完全性定理」と呼ばれるこの定理は、それ自体が数学的な証明によってなされている自己言及型の定理であるが、数学的な体系の自己完結すら許さないことを示すものである。ここでは、その存在に触れるだけにとどめておくが。

「万物の根元は数である」としたピュタゴラスには悪いが、数学的な記述を持っている理論だからといって、真理に近いという保証はない。保証がないというだけで、実際にはプラトンの言う「イデア」の世界が存在し、それは数学による記述でしか表現できないものなのかもしれない。しかし、アリストテレスが、「数学は、実体から抽離された形相の一部分を扱うに過ぎないのだから、重視する必要はない」と言ったことを、今もう一度思い出すのも良いのではないだろうか。[9]

 

2 数学的でない記述 意識なし。

次に、数学的な記述でなく、意識や心の類を扱わない現在のアプリオリについてみてみよう。

ダーウィンの進化論などは、その典型である。この進化論は理科の教科書にも載っているものであるが、これは本当に科学といえるのだろうか。そんなことは普通疑わないであろうが、①に従うと、科学ではない。生物の歴史というのは一度きり起こったことで、その検証方法はない。進化が本当にあったのかどうか、実は分かっていないのだ。進化論というのは、進化を説明するものではなく、生物の多様性を説明するものである。進化のメカニズムは確定しているわけではないので、現在から過去を推測して知ることも不可能で、進化論は現在ある生物の姿と過去の生物の化石などから類推するしかないのである。

さて、ダーウィン進化論が科学ではないということに対し、もう一つの捉え方もある。それは、この進化論(というよりもどの進化論にもこれはつきものなのだが)には反証可能性がないということだ。たとえば「非常に長い年月がかかったとしても、ここまで複雑で巧妙な生物の機能が、本当に偶然と選択によって起こりうるものなのか?」という反論に、一言、「それは起こった」だけで答えることが出来る。本当に「それは起こった」のかどうか検証法がない。それだけに、“偶然”と“長い年月”という二つの組み合わせを武器に、なんでも説明できてしまうのである。

他にも、強者生存の原則から、「この形質は本当に生存に有利なのか?」という問いに対し、厳密にその形質がもたらす益、不益を検証することが出来ないため、「それは生存に有利であった」と答えれば事足りるということもある。[その生物が現存する=強者]という結果が、その回答を無条件に裏付けしてくれるのだ。これはまさしくトートロジーであり、科学ではない。同様に今では異端と見られているラマルクの定方進化説も今西進化論の「なるべくしてなった」もトートロジーである。

このように進化論を検証すれば、それは科学とは呼べないものだと判明するが、私達はそれを理科の時間に習う。現在はダーウィン進化論がよりうまく世界の説明ができるとされているので(要素②)、ラマルク進化論や今西進化論(キリスト教の創造論もいれるべきか)をおさえて常識”的理論とされている。しかし、これは物理の方程式のような厳密性もないし、それによって世界をうまく説明できないことも少なからず存在し、一般に対するダーウィン進化論の定着度とは裏腹に、今もこの分野での議論は絶えない。

他のこの領域でのアプリオリに、熱力学の法則や、プレートテクトニクス理論などがある。前者はそれほどでもないが、この領域にあるアプリオリの多くには異論があり、不安定な要素を持っている。

 

3 数学的でない記述 意識あり

次に、先ほどの無意識”などが関わる領域である。この領域は科学にはなり得ないという点は先に見たとおりで、前二つの領域よりも曖昧さの強い領域である。アプリオリは人の心理や行動を説明するために作られるが、人の心理も行動も様々な解釈のやり方が可能となるので、物理の世界のように専門家の間でかっちりとアプリオリが決まっているということもなく、派閥によって違う。

無意識”は、フロイトが提唱した当初はいろいろと非難もされたが、現在では心理学の分野では半ば“常識”となってきている(無論、今でもそんなものはないと言い張る学者もいる)。フロイト派でない人達は下意識”とかいった言葉を使ったりもするが、大概同じ物である(だが、私達が日常使う「無意識のうちに・・・していた」の「無意識」とは意味が違う)。この無意識”のように、専門家の間で半常識になっている(多くの人が支持する)ものは、一般の人にとっては常識と感じられることが多い。だから、先ほどの例のように心霊現象”が無意識”で説明されると一般の人は納得してしまう。しかし、本当に彼らが無意識”について知っているのかというと疑問である。

ユング[10]の提唱した集合的無意識”などはまだ専門家の間に広く認められておらず、一般の人でそれを知っている人も少ない。だから、一般の人に心霊現象”をこの集合的無意識”で説明したとしても彼らは納得がいかないだろう。彼らは自分が本当に理解できている概念で説明がつくことよりも、自分が知っている言葉、常識とされている概念で説明がつくことで納得がいくのではないだろうか。

今まで、私が常識”とかアプリオリ”とかいった言葉により表現してきたことはパラダイム”と呼ばれる概念を使ったりして説明されたりするものである。パラダイム”は流行りの言葉であるが、やや濫用されているようだ。もともとの意味は、提唱者、T.S.クーンによれば「一定期間、科学に従事するものに対して、モデルとなる問いや答えを提供する普遍的に認められた科学的業績」である。

私達がアプリオリとして使えたり、常識として前提に出来るのは、その時代のパラダイムに即したものだけであるといえる。パラダイムが変わる時は、科学革命が起こる時である。ニュートンが科学に数学という言語を導入した時などがそうである。

自然科学のみならずどの分野でも言えることであるが、新しい概念が提唱されると、それまで築き上げてきた既存の概念体系を訂正、または放棄しなければならないので、それに抵抗する人々は多い。それを乗り越えるには、その概念を説明する理論を精巧化させてゆき、導入によって得られる利点の多さを訴えなければならない。もっとも、その概念を広めたいとかアプリオリにしたいとかいったことに野望を持たなければその必要はないのだが。

しかし、それだけではだめである。その理論が広く受け入れられアプリオリとして定着するのには、その時代における世界観が大きく影響する。このことは、信念の問題として後に詳しく取り上げる。

 

科学教育も洗脳?

私達が何かを議論しようとする時には、何らかの共通の前提が必要である。その前提が違うとまったく議論が噛み合わない。私達が原始人と話が噛み合わない理由はそこにあったわけだが、現在科学の領域においては少なくとも西欧の国々では話が噛み合う。それは、誰もが学校で同じ概念を前提とするように教育されているからに他ならない[11]

思い出してみると良い。私達は学校の理科の授業で新しい概念を学ぶ時、その実在性を問うことはない。例えば授業では、物質は本当に原子から成るかとか成らないかとかは問題とならずに、いきなり前提として成る”から始まる。原子の実在性を問うことはない。私達が習うのは、その性質だけである。その実在性を学校で教えないのは当然である。本当にそれが実在であるかどうかは、誰も知らないのであるから。教えないというより、教えられないのである[12]。きっと昔は、学校で燃素フロジストンの存在に疑いをかけること無しに、生徒達はその性質を叩き込まれていたのだろう。

私達は、実在かどうか分からないものを、当然実在であるかのように信じ込まされる。私達はその実在について疑いをかけられる人を育てるような教育は受けないが、もしそれに疑いをかけたしても先生達は「この子はちょっと変」とレッテルを貼るだけである。私達は、一つの世界の捕らえ方であるに過ぎないものを、選択の余地のないままに植え込まれる。この教育の現状は、まさに洗脳ではないだろうか?

本来ならば「もし物質が原子からできていて、原子がこういった性質のものであると仮定すると、それを使って世界の現象をこれだけうまく説明することができます」と教えるべきである。これは微妙な違いのようで大違いである。なぜなら、教えた概念が実在性を持つものとされてしまうと、その他の概念は違った世界の捕らえ方”ではなく単なる嘘、迷信”になってしまうからである。もし原子が実在であるなら、それ以外の、物を構成する要素は実在ではありえない。しかしながら、私達が科学と呼ぶものと迷信と呼ぶものが、それほど遠いものではないということは、これまでにも見てきたはずだ。きっとこの点は、私達がなかなか飲み込めない部分であろうから、もう一度復習の意味を込めて、私と(私の中の内なる)物理学者の対談形式で確認しよう。

 

科学と迷信の相似性

 

 私  「さて、科学も迷信も真理を追究しているといった点では同じだけれど、何か異なるという点があるというなら言ってみてほしい。」

物理学者 「科学は迷信とは違って、万人に共通する客観的な真理を追究する。迷信、宗教なんかはそれを信じた人にとってのみの真理だ。真理っていうのは、信じるとか信じないとかの問題ではなくって、人間の外にあるものである。」

 私  「おや? あなたはT.シライの書いた“科学とはなにか“を読んでないとみえる。ここに、科学も信じていない人にとっては真理にはならないとちゃんと説明してあるのに・・・。どうやったって、科学は人間の主観というものが入り込まずには成り立たないんだよ。」

物理学者 「???…少なくとも神”とか精霊”とかいう訳の分からない概念を持ちだして、つじつま合わせをしようとするようなものと、科学が違うってことだけは確かだね。」

 私  「訳分からない概念といえば、超紐”[13]とかハドロン”[14]とかいった概念も同じさ。こんな概念が、自然現象の説明のつじつま合わせのために登場したのだとしたら、“神とか“精霊”と大差はないと思うんだけど。」

物理学者 「こらこら、そんなはずないだろう。科学的な説明に使われるものはちゃんと検出器によって誰もがその存在を確かめることが出来るんだぜ。ところで、神”が検出器に引っかかったことが一度でもあるのかな?」

  私  「ところが、一度どころじゃなく引っかかってるんだこれが。神託って知っているかい? 鍋で骨を煮てそのひびの入り方で神の意志を検出したりとか、いろいろな技法があったんだ。いや、もちろん今でもある。」

物理学者 「はあ? 骨と電波望遠鏡が同じレベルかい?」

  私  「別に同じレベルだなんて言ってない。姿勢としては科学と変わりないと言いたいだけ。彼らも自分達の持つ概念を、きちんと自らの目で確かめられる形にしたかったんじゃないかな。」

物理学者 「うーん……じゃあそれは良しとて、こういうのはどうだ? 科学はちゃんと経験的にその理論を確かめるし、反証が見つかった時には修正もする。だけど、迷信にはそんな機構はない。」

  私  「それじゃあ、反証が見つかった時の態度を、僕たちが迷信と呼ぶものと、自称科学の理論と、文句無しに科学とされるものの3つの例をそれぞれ出して比較してみよう。まず、迷信。例えば、神託が間違った結果を示していたことが分かった時でも、君の言うように、その神託の方法に疑いをかけることはしない。神官は、その失敗を理由付けるために、誰かがタブーを破っただとか、誰かが神託の邪魔をする妖術を使っただとか言う。」

物理学者 「ほら、やっぱりそうじゃないか。だから科学っていうのは・・・」

  私  「おい、ちゃんと続きを聞いてくれ。次に自称科学の社会主義のマルクス主義だ。この主義の主張では、社会主義国同士での国家的戦争はありえないとされている[15]。しかし、ベトナムと中国では、社会主義を名乗る国々が戦っている。これで反証をすると、マルクス主義者達は、あれは実は本当の社会主義国じゃないんだ、とかいった弁明をして、理論の修正をしようとはしない。これも迷信と同じ態度だ。」

物理学者 「そう!マルクス主義は科学じゃない。科学ってのは・・・」

  私  「・・・科学ってのは本当に違うのだろうか。この例も、“科学とはなにかの“科学はどこまで客観的か”の中で天文学者やらの話が載ってるんだが、もう一つの例をだそう。まだ血液循環説が登場する前、すでに静脈弁は発見されていて、血液が一方向にしか流れないことが示されているにもかかわらず、静脈中でも血液が自力で両方向に移動するという当時の考え方は何の修正もされようとしなかった。このように、反証が現れたからって理論をきちんと見直そうとする姿勢が今の科学にもないことは、君も思い当たることはたくさんあるんじゃないかな。」

物理学者 「しかしそれは、頭の固い科学者のすることであって、ちゃんと客観的な態度で望むことの出来る科学者ならば、そういったことも回避できるんじゃないか?」

  私  「ところがだ。そんな科学者はまずお目にかかれない。科学者の最大の関心事といったら、研究者としての名声を立てること、身近な関心ごとは論文の締め切り。なんせ、生活がかかっているからね。まず、何か研究しようと思ったら、既にある理論のもとに議論を進める研究室に属さなければならない。そこでもし、その研究室で信仰されている根本理論にたてつこうものなら、研究室での立場は危うい。独自の研究が許されても、論文を審査するのは神様じゃない。審査員のお気に召すような論文をこしらえるべく四苦八苦だ。この状況では、頭はかちかちにならざるをえない。結局こういうことだ。どの時代でも、人は本当に自由な思考をしているわけではなく、暗黙の了解、常識からはみ出ない程度のところを超え出ないということ。名前が神話から科学になっても、その方法が変わっても、人間の姿勢はいつの時代にも変わらないということ。確かに、科学は技術と結び付いて大きな発展をさせたけれど、人間そのものはいつまでたっても変わらないんだ。昔の人にとっての科学は今、神話と呼ばれるようになったけれど、現代の科学は将来には神話となるんだ。」

物理学者 「ちぇっ。訳の分からん哲学話まで運んでいきやがって。もういい。どうやら君とは話が通じないようだ。こんな何の役にもたたん話に油売っていられるほど、暇じゃないんだ。さあ、研究研究。」

 

これを読んで「筆者の思惑通りに話が進みすぎだ!」と思うかもしれないが、何も間違ったことは書かれていないはずだ。それにしても、この物理学者、彼らの大好きな合理的な議論で言い返しが出来なくても自分の信念を曲げない姿勢、相手の立場を理解しようともしないで非難する姿勢、彼の嫌いな迷信の信仰者にそっくりではないだろうか。

 

笑い話のようであるが、物理学者のM・ゲルマンは、いつも医者からの注意書を持ち歩いている。それには「彼の健康を損ねる危険があるから、哲学者と議論をしないように」と書かれているという。

 

もし違ったアプリオリだったら?

 では、もし私達が現在、アプリオリとして信じ込まされている概念が、違ったものだったらどうなるであろうか。例えば「これは知っている、説明いらん」という前提となるものが、中国の伝統である“陰陽五行”だったとしたらどうだろう。これによって世界が説明されているのであるならば、それは紛れもなく科学の名がつくだろう。そして逆に、“陰陽五行”がアプリオリの世界から見れば、西洋的なアプリオリの基に成り立つ理論体系は非科学的とされるであろう。

こうして考えてみると、私達が西洋的な前提に立つことによって、そういった説を非科学的の一言にかたずける姿勢は公正な態度を欠いてうると言えよう。公正な態度は科学者の必須条件ではなかっただろうか。

 このことには「より正確に世界を説明できる方が科学である」という要素②を使って勝敗を決めることで解決をつければ良いのではないかと思われるかもしれない。しかし、どの分野においてもどちらかの前提がよりうまい説明をつけるということは少ない。

西洋科学は確かに物理的現象を説明するという点においてはうまくできているかもしれないが、医学に関しては、西洋医学が絶対優勢ではない。東洋医学によってよりうまく説明され、処置ができることも少なくない。もちろん外科技術や伝染病に関する分野などでは西洋医学が勝っているのではあるが、西洋医学は東洋医学を包含するものでは決してない。

大ざっぱな分類だが、東洋医学は人を全体的に見るし、西洋医学は分析的に見る。学問の世界に置き換えてみれば、前者は集合体としての振る舞いを考える熱力学や社会学で、後者は個々のはたらきに目を向ける力学や心理学に相当するのではないだろうか。後者の西洋的な考え方である還元的な考え方を発展させてゆけば、個々の動きをそれらの間の相互作用まで含めて正確に捉えれば全体の動きはその統合で理解できるようになるということは、間違いではないかもしれない。しかし、実際問題としてそれはまったく不可能である。更に、素粒子や原子の振る舞いを完全に説明できたからといって、それによって高分子や、生命体、意識といったものの説明が付けられるという保証はどこにもない。

「一匹の蝶のはばたきが、三日後には台風となりうる」というようなことが気象学、複雑系の分野では言われる。これは、天気を決める要素は相互に複雑に絡まりあっているために、原因と結果の関係ははっきりと決められるようなものではないことを示した言葉である。だから解析は難しく、予測がつけにくく、天気予報の的中率は簡単には上がらない。

このように、実際問題として非常に多くの要素が相互作用するこの世界において、分析的な考え方だけで世界を説明することは不可能である。だから集合体としての振る舞いを観察しようという姿勢も必要となってくるはずである。そして、その方法論は当然ながら還元的なものとは異なってくる。このようにみれば、東洋医学の方法論が西洋医学から見て不可思議に感じられることもそれほど問題ではないのであろうか。

しかし、現在総合大学の医学部で学ぶことといえば、西洋医学のみである。きっと医者や科学者にに言わせれば「根拠もない東洋の前近代的な医学を学ぶことに意義などない」ということなのであろう。保険制度の待遇の違いも、その態度を表している。ところで、彼らは東洋医学についてどれだけの知識を持ってそう判断するのだろうか。西洋医学における根拠と東洋医学における根拠は、それほど根本的に違ったものなのだろうか。彼らは言うであろう、「知る必要はない。その成果がすべてを証明している」と。もし、その成果を見るのであれば、西洋医学と違った分野で成果をあげてきた東洋医学を真剣に取り上げてみる必要があるだろう。

彼らが東洋医学の発達している地域に、「迷信に替わる西洋医学を広めよう」と意気込んでいくとする。しかしその地域の医者が、西洋医学は自分達がそれまで前提としていたものと違ったものを前提としているという点をみて、「そんな無根拠な医学は受け入れられんね。私達の医学には実績があるのだよ」と彼らに対して聞く耳を持たなかったとしたら、彼らはどのように感じるか。「何と愚かな!彼らはまるで合理的精神を失った狂信者のようではないか!」と思うだろうが、それは、まさに彼らが東洋医学に対してしていることと同じである。

医学の形態は西洋、東洋の二形態だけでなく世界に数限りなくある。それらはそれぞれの地域の中でその風土や文化と結び付いてその役割を果たしていて、すべてが西洋医学に包含されるようなものでは決してない。それらをすべて同列に並べて教育しろとは言わないが(それは不可能だ)、少なくとも一つの見方であるに過ぎない西洋医学のみを絶対として教育する姿勢には肯定し難いものがある。

 

偏見を捨てて

西洋医学と東洋医学のほかにも、世界の捕らえ方の根本から違う理論はたくさんある。そのことについて、以下の例えで理解できるだろうか。

嗅覚しかない動物と、味覚しかない動物がいるとする。彼らは食べ物に関する情報、栄養になるかならないか、毒性があるかないか、などをそれぞれの感覚を用いて判断する。両者とも、その発達した感覚で実用にさして困ることはない。同じものに対して、それぞれまったくといっていいほど違った感覚で解釈をつけるが、どちらが正しいとか、どちらが間違っているとかいうことはない。お互いが自分に可能な方法で実用する。それだけである。

これと同じようなものではないだろうか。違ったアプローチをすれば、違った側面が見えてくる。それは、方向性の違いにすぎない。そう考えられないだろうか。

人間同士はこの例と違い、皆本来ほとんど同じ――2章で見たようにその解釈体系は大きく変わるが――感覚を持ったものである。だからこういった場合、双方の見方を偏見なくそれぞれの立場に立つことによって[16]相手の解釈の仕方を理解し合い、両方向から歩み寄ることが可能なのではないだろうか。それこそが、普遍的で客観的なものを求める科学の姿勢といえよう。そして、偏見なく物事を見る能力(=科学的思考力、という常識は通用しないということはさんざん見てきた)を持たせることこそが教育のもっとも大切な役割だと思う。自分が今持っている前提に縛られていては、異なる前提に立つその世界における科学は単なる非科学としてしか見えないであろう。今、自分が持っている前提が絶対でないことを誰もが認識しておく必要がある。

このことは科学の分野以外でも当然あてはめることができる。要するに、一つの地盤に縛られるなということである。もともと、「それぞれの文化の背景まで考えれば、我々が迷信と呼ぶものも、それほど無根拠のものではない」という見方は、人類文化学の分野から生まれてきたものだった。しかし、彼らでも科学だけは迷信とは別だとして疑いはしなかった。

 

洗脳教育と権威

私は先ほど現代の教育の現状が洗脳であると言ったが、これは理科の分野だけではない。例えば我々は、放射性同位体の測定により、ピラミッドの建てられた年代をなどを測定しようとするが、これがそれほど厳密なものではないのだ。このことを大学で知って私は驚いた。教科書には、いかにも疑いもなく確定された事実であるかのように年代などは記述されていたからだ。

他の分野からの年代推定も当然あるのであろうが、大学で史学を教えていたある先生の話によると、「学生達が言うには、大学に入ってまずはじめに教えられるのは、高校までの歴史の授業で習ってきたことが、実は根拠の薄弱な怪しげなことばかりだということだ。教科書に書いてあったもっともらしい説明が、実は当てにならないことを知ることで、彼らはショックを受けるらしい」ということで、どの分野でも似たような感じである。彼らのショックは、私の驚きと同じものであろう。

“洗脳といえば“新興宗教という連想が私達の頭にはまず起こるであろうが、新興宗教への入信はだいたいが自分の意志に基づいておこなわれるから、その点、まだたちは悪くない。しかし、教育という無条件に義務として皆が受けさせられる現場で、このように知識の植え込みをするのは、かなり悪質なのではないだろうか。その知識は権威によって力を持つ。その知識を詰め込んだ少年達は“良い子”の称号を得る。“良い子”は将来の権威となる可能性を与えられる。この循環である。

 

ある精神科医が、新興宗教で精神をおかしくさせる患者が多いため、自らがある新興宗教の講義を受けに行ったという話がある。訳の分からない概念を連発して心の問題などを説明する講義を受けおわった後、彼はこう考えた。

「受けた講義と精神病理学とが同じくらい曖昧で、単純なつじつま合わせにみえたのは興味深いことであった。症例の観察から離れ、概念化された用語を乱発して臨床を論じているような精神病理学が“科学的”であるとするなら、真光教の講義と同じくらい、“科学的”であるに違いない。」 (「宗教に入る人の心が分かりますか」 石川 元&影山 民夫 弓立社)

そして彼は、それでも精神病理学が“科学的”であるように認められているのには、“権威付け”があるから(もちろんそれだけではないだろうが)ではないかとした。

 

科学の信仰的側面

科学はイメージとしては客観的なものだが、実際には、主観こそが重要となる信仰的な側面もあるというのは今までにも見てきた。M・プランクは「科学には信じる心も必要だ。種類を問わず、科学的な研究に真面目に取り組んできたものなら誰もが、科学という寺の門へ通じる道に、こういう言葉が記されているのを知っている。<信仰を抱くべし>と」と語っているが、ここでは、歴史的な科学者は、例外なく(宗教的ではなくとも)信仰的な姿勢を持っていたということを見てゆこう。

 コペルニクスが、当時の教会の世界観であった天動説に対して地動説を唱えたことを、宗教対科学の図式で私達は見ているかもしれないが、実はそうではない。コペルニクスは、聖書の冒頭、創世期での神の最初の言葉「光あれ」の“光”を太陽と捕らえ、太陽は地球に先立つものなのであるから太陽こそが宇宙の中心なのではないかという信念から出発していたのである。そして、そのモデルは初期においては天動説のモデルよりも実際の世界を説明できなかった。つまり、地動説は科学的な態度「よりよく自然現象を説明するから」ではないところから生み出されたものだったのである。

コペルニクスと同年代には、「宇宙には中心はない」という更に進んだ考え方を提出したブルーノという修道僧がいた。彼も、事実からではなく神というのは宇宙全体を支配するものだからということでこの考え方を導いている。しかし、この二人とも正統教会からは異端とされ、ブルーノにいたっては火あぶりの刑に処されてしまった。客観的な証拠がなかったにもかかわらずここまでその考え方を貫いたというのは、まさに驚くべき信念のなせるわざである。

ニュートンが、自然法則を理解することは神の御業を理解することだという姿勢で学問をしていたことは有名である。だが、彼は自分の理論で木星と土星の運動をうまく説明できなかったことを「それは神の介入の証拠である」と論じたほどに熱心な信仰者であったということは、あまり知られていないであろう。

 

ここまでは、宗教的な哲学に即した信仰であったが、「神は死んだ」近代になると、自らの自然観への信仰的側面を持つ人が増えててくる。

アインシュタインは「光速度不変」の信念のもとに相対性理論を打ち建てたし、後年では「静的宇宙」や「決定論的宇宙」を信念として孤立した状況にも負けずに貫こうとした。彼は、科学的姿勢と信念の共存のジレンマについて「信念をもっともよく支えてくれるものは、経験と明晰な思考である。しかしその考え方の弱点は、我々の行動や判断にとって必要かつ決定的であるそうした信念が、必ずしもこういった純粋な科学的方法にしたがってはいないという点である」と語っている。

ハイゼンベルグは、自然界の中で最も基礎となる要素は「対称性」であるとし、その信念のもとに行列量子力学(後にシュレーディンガー方程式と等価と分かる)を築きあげた。彼は、プラトン的自然観を支持しており、世界を支配するのは“美”であると信じ、その“美”を構成するものとして「対称性」にこだわったのだ[17]

 

こういった歴史を眺めてみて分かることは、科学においても新しい理論は、どれも裏付けのない信念から始まっているということだ。そして、後にその理論を根拠付ける観測が伴って、はじめてその正しさが認められた。当然信念だけで裏付けを持つことができずに消えていった理論(例:錬金術)も数知れずあるが、革命的な科学の発展はすべて信念が出発点となっているのであるから、このような姿勢も大切にするべきだろう。

今まで見てきたように、科学の発展は信念、信仰的な態度から生まれてきたのであったが、その障害となったのも信念であったということも、思い出していただきたい。自分達の抱く信念に反した理論の登場を阻止しようとしてきた人々は、中世の宗教者から現代の科学者まで絶えることがない。科学の世界もまさに、信念によって動かされるものなのである。

 

信念が排斥した理論

コペルニクス達のように信念を貫いて新しい理論を提唱し続けて、後にその正当な評価が得られた場合は良い。しかし、検討もされないままに科学者達の信念によって闇に葬り去られた理論もある。その例を2つほど見よう。これらは、科学的な手法に基づいた上で批判にさらされたのではなく、明らかに科学者達の固定観念のために排斥されたものである。注意しておいてもらいたいのは、ここで問うているのはその理論の正しい正しくないではなく、科学者達の姿勢である。

 

1  占星術

1975年、米国の「ヒューマニスト」という雑誌に、占星術を批判する論文がいくつか掲載された。内容としては、「占星術は地球中心説という間違った前提から発している」「占星術は魔術から生まれた」などであるが、前者では占星術が理論からの演繹ではなく、統計学的に生まれたものであるという点や、地動説の支持者であるはずのケプラーが占星術を擁護し、実践し続けていたという事実が、後者では現代科学も同様に魔術から出発しているという事実が認識されていない。

批判をした科学者は、自分が批判している対象である占星術に対して無知であったばかりでなく、自分が立脚している科学についても理解が乏しかったようである。この雑誌の一般的な声明には、極めて著名な科学者を多数含む186人もの署名がなされている。この文書が発表されて数ヶ月後、BBCがこれらのノーベル賞受賞者の何人かと占星術の擁護者との論争を試みようとした。しかし、彼らは全員断ったという。ある者は断るにつけて、このようなコメントを添えた。「自分は占星術の詳細は何も知らないから」と。

彼らは、自分が知りもしないものを批判していたのだ。それではその批判が何に基づいているかというと「自分が知っている科学の世界こそが正しい。それ以外は間違いである」という信念である。もし立派な論証、明晰な反証が一つあるのであれば、どうして186人もの科学者の署名が必要だったのであろうか。それは明らかに権威付けによる異端の排斥であり、現代の魔女狩りである。

 

2  ヴェリコフスキーの「衝突する宇宙」事件

 1950年代に刊行されたこの「衝突する宇宙」という本(一般書として出された)は、最近話題になった「神々の指紋」と内容的に近い物があり、その理論の中心は、紀元前15世紀から8世紀の間に、太陽系の惑星の軌道が交錯し、それにより地球が連続的な大災害を被った、とするところにある。この説の発表とともに、科学者達からは感情的ともいえる反論が始まった。しかし、批判はこの本を読んだこともない科学者の間からもなされた。

また、科学者達は出版の差し止めを請求し、それが(当然ながら)認められないとその出版社(このマクミラン社は教科書を出版していたので、科学者とのつながりが深かった)へ、「もし出版をやめなければ貴社の教科書を使用しないぞ」と脅したり、教科書の校閲を拒否したりといった圧力をかけはじめた。結果、科学者とのつながりの薄い出版社へとその版権は移されたのだった。

 当時のアメリカ自然誌博物館の天文学長であったG.アトウォーターは、「ヴェリコフスキーの理論に全面的な賛同はしないが、多くの利点もある。」と公言し、理論の支持をやめろとする前アメリカ天文学会会長O.ストルーヴの命令を無視したために、ある日突然の解雇を宣告された。J.オニールという科学編集者もまた、この理論に支持を表明していたが、ストルーブの手紙を受け取った後に突然、自分の記事が掲載されなくなったという。

科学者達が一斉に反論をした理由は、確かに存在した理論の非整合性だけにあるわけではない。その反論がヒステリックで、強圧的であったのには、ヴェリコフスキーの理論には、科学的説明と両立しない神話、伝承といった内容が含まれていたということも影響があると思われる。また、その内容が科学者の間で検証される前に一般書として大ベストセラーとなっていたことで彼らには焦りが加わっていたのであろう。

この理論が認められてしまうと、自分の立ってきた理論を放棄しなければならなくなるので、科学者達がその抹消に必死にならざるをえないのは、同情の余地はあったとしても、同意は出来ない。

最近の「脳内革命」の大ヒットに伴っても、科学者達の批判が多数よせられたが、これも似たような事例であると言って良かろう。専門知識のない一般市民は、博士などの権威ある肩書きを持つ人の書く本の内容を無条件に受け入れがちになってしまうので、そこには確かに批判的な視点の存在を教えることも必要だと思われるが[18]、この事件のように異端審問的な姿勢は、科学者のモットーとする客観性を大切にする姿勢からは遠く離れたものである。

 

権威と支配

先に見た、コペルニクスやブルーノの理論にいち早く賛同を示した人々は、宗教や社会に対して新しいものを求めていた人々であった。彼らが新しい理論に賛同を示したのは、その理論が既成のものよりも正しいと判断したからではない。なぜなら、彼らにはその理論の正当性を感覚的にしか検証する手段を持っていないのだから。だから、彼らは新しい理論に賛同を示したというのは、科学的な姿勢からのものではないことは明らかである。

しかし、教会だけでなく科学者までもが、新しく革命的な理論に正当な検証を加えないでその判断を下すということがまま起こるということを、ここまでに私達は見てきた。それでは、なぜ一方は批判し、一方は賛同をしたのであろうか。

それは、前者は自分の立場を権威付け、守ることにより支配する者であるからである。そして後者、一般市民は、権威に力を借りる者よりも、自分の立場(を支える理論)を守る必要がなかったのである。おそらく彼らは、一方的に世界観を与えられ、支配される息苦しさに反抗する道として、権威にたてつくはたらきを持つ新しい理論に賛同を示しているのであろう。

 

ニューサイエンス

これに類似した現象は、現代でも起こっている。それは、ニューサイエンスと呼ばれるもので、その発端は、70年代アメリカで発祥したニューエイジ運動と結び付いている。この運動は、時代の流れで無視されてきたものに対する反発から花開いたものと思われる。社会のあり方に飽き足らなくなっていたその運動の担い手は、ヒッピーと呼ばれたりしていた。“意識の変容”を合い言葉に、幻覚性の薬物を試みたり、ヨガや禅などの伝統東洋的な求道法に手を出したりしたというのが大筋であるが、実際には、単に反体制的にドラッグやロックを追求していただけという一時的な面もある。

ニューサイエンスが扱うのも、これまでの科学が扱ってこなかった領域で、意識や全体性といったことを主軸に掲げている。近代物理学成果と、東洋神秘主義の思想の相似性を説いたり、部分と全体、精神と物質の連関を説いたりと、哲学的な色が濃い。本来、科学と哲学は一つのものであったが、それをもう一度統合しようという試みであるともいえる。

そういったニューサイエンスに対する反論もある。「なんの応用もなされないものは科学ではない」といった批判はナンセンスであるが「時代への反動として文学的な砦を築いたに過ぎない」という批判はまったくそのとおりではないにしろ、ある程度正しいと思われる。しかし、ニューサイエンスの担い手は、現代の正統科学にも精通しているが、往々にして批判を繰り出す伝統的な科学者や哲学者は、ニューサイエンスの思考法、東洋的な発想法に対する理解に乏しいというのは問題である。

権威となっていないだけに、ニューサイエンスが扱う領域にはタブーがなく、様々な視点から広い領域に渡っての見通しを立てているという面に関しては、少なくとも注目すべき点がある。今後も彼らが自由なやり方で追究を進めてゆけば、その成果は期待できる。

しかし、何らかの成果を挙げることにより社会的に認知されると、おそらく研究は守りに入り、その自由さというのは失われてしまうことだろう。彼らを突き動かすエネルギーは、抑圧された時代への反抗と、新しい時代を自分たちが切り開いてゆくんだという自負からきている面があるように、私には思われるからである。

新しい領域を開拓する人がいる一方、それをよからぬ目で見る人がいるということが、単なる権威対反権威の図式にとどまってしまわなければ良いと願う。しかし、そういった歴史は幾度となく繰り返さてきてれる。それは、いくら時代が変わっても、人間の基本的構造は変わらないからである。このことに関しては、後の章で詳しく論じたい。

 

科学の限界、結び

ここで、現代物理学の構築者たちの言葉を、もう一度思い返してみよう。彼らが口をそろえた科学の限界とは、科学とは自ら創り出した概念の相互作用を明らかにしてゆくに過ぎず、その奥に潜む世界の本質に対してアプローチすることはできないということだ。科学は、その手法が適応できる領域しか扱えないのにも拘わらず、すべての現象を説明できる唯一の方法であると信じることは、科学に対する無知である。また、科学が終局性を持たないことや、主観的な判断を逃れ得ないこともその限界を示すものである。

例えば、科学は私達の目のしくみについて解明してきた。しかし、「なぜ物が見えるのか」という問いに対して、科学はまったく答えることはできない。科学は「物質に吸収されずに反射した光子のうち、ある領域のエネルギーを持つものは、目の網膜を通って視神経に捕らえられ、それが電気信号となって…」という説明を付けることができる。しかし、それは物が見えるまでに起こっている物質的なプロセス、物が見えるのに必要な条件を解析しているだけで、どうしてそれが視覚となって私達の意識に上るのかという問いに対しては、まったく説明する力を持たないのである。

限界まで真理に近づけようと科学を探求するにしても、裸の真理の姿というものを知らないのに、本当にそれに近づいているのかどうかを確かめる術はない。ただ、近づいているのではないか、ということをその理論の現象との整合性から推論することしか出来ない。科学の追究する真理とは、現象を統一的に完全な整合性を持った理論で説明し尽くすことである[19]

しかし、科学が適応できるのはそこまでである。既に在るものの性質を調べてゆくことはできても、なぜ在るのか、なぜそのように振る舞うのか、といった根本問題に立ち入ることは出来ない。J.ヴィーコの「もしかりに我々が自然学的事柄を証明できるとしたら、我々はそれらを作っていることになる」という言葉を、今一度思い起こして欲しい。「証明できないことは信じない」と科学者が述べるのならば、彼は何も信じることが出来ない。もし、証明できないことに立脚することが出来ないのであれば、究極的には人間は何一つとして行うことが出来なくなってしまうのである。

私達は、自らの生み出した概念によって、自らを生み出したものの理由を問うことは出来ない。そして、そこに宗教の存在価値が現れてくる。次章では、宗教について考える。

 

この章は、プランクとゲーテの次の言葉で締めさせてもらう。

 

「科学は、今日の宗教が満たすことのできない形而上学的欲求を、ある程度まで満たすかもしれない。しかしそれは、宗教的な反応を直接かきたてることによってなされるもので、科学それ自体は、けっして宗教の代わりにはなりえない。」 プランク

 

 「考える人間の最も美しい幸福は、極め得るものを極めてしまい、極め得ないものを静かに崇めることである。」 ゲーテ

 

 参考文献

「宗教に入る人の心が分かりますか」 石川 元&影山 民夫 弓立社

「科学論入門」 佐々木 力 岩波新書

「科学的方法とはなにか」 浅田 彰他 中公新書

「知とはなにか」 P・K・ファイヤアーベント 新曜社

「きわどい科学」 M・W・フリードランダー 白揚社

「パラダイムの迷宮」 J・L・キャスティ 白揚社

「科学と非科学のあいだ」 下坂 英他編著 木鐸社

「科学はどのようにしてつくられてきたか」 板倉 聖宣 仮説社

「精神世界のゆくえ」 島薗 進 東京堂出版

「現代科学・発展の終焉」 村上陽一郎&ひろさちや 主婦の友社

「構造主義科学論の冒険」 池田 清彦 毎日新聞社

「現代思想・入門Ⅱ」 別冊宝島52 宝島社

「量子の世界」 櫛田 孝司編 大阪大学出版社

「量子の考案」 K・ウィルバー 工作舎

「現代物理学の自然像」(みすず書房) 「部分と全体」(みすず書房) 

「限界を超えて」(蒼樹書房) W・ハイゼンベルグ

「わが世界観」(共立出版)「精神と物質」(工作舎)「シュレーディンガー選集」(共立出版) E・シュレーディンガー

「アインシュタイン選集」(共立出版) A・アインシュタイン

「未知への旅立ち」 金子 務 小学館ライブラリー

「現代物理学の思想・下」 田中 加夫他訳 法律文化社

「科学と見えざる世界」「自然界の本質」 A・エディントン

「トンデモ科学の世界」 竹内 薫&茂木 健一郎 徳間書店

「ニューサイエンスの世界観」 石川 光男 たま出版

「人はなぜ騙されるのか」 安西 育郎 朝日新聞社

 



[1] ただし、宗教の神秘主義的側面を除く。これについては次章で扱う。

[2] 科学外の世界でも、ある現象をより多くの要素に分解することが優れた解析であると単純に考えられているようなふしがあるように思われる。確かに、そのものに当てる言葉を増やすことで細かい区分が可能になり、より緻密な議論が可能となる。しかし、言葉の曖昧さがもたらす利もあるということも私達は忘れないでいるべきであろう。分割作業に捕らわれてしまうことで本質を見失うこともあるのだ。

[3] 反証可能性を科学の条件と掲げて進めようとする試みは、反証されてもつじつま合わせが容易な経済学の分野では、たいして機能しない。一方、帰納(経験)主義を掲げても、同じデータ(現象)を派閥の違う複数の両立しない理論が説明つけ、並立して存続しているような状態なので、これも機能しない。経済学を科学にする試みは現在では下火である。

[4] こういった説明がつけられるのも、過去は頭の中にのみ存在し得るもので、現在にはその残された後を見ることでしか検証のしようがないためである。

[5] メリーアン・サウスが提唱したように、錬金術とは古代の神秘的な宗教が法典化された一形式であるとも考えられている。ユングをはじめ、錬金術は物質の相互作用に象徴させて人間の精神のはたらきを説明しているものであると考える者も多い。

[6] ところで、原子という概念がまだ確立していなかった時代に、原子の概念を用いて熱力学を構築したL・ボルツマンが、原子論に強く反発した当時の科学界の大御所達との論争に疲れ果てて自殺をするという痛ましい事件が起こっている。

[7] 真光教など霊を扱う宗教の教えを見るとそれが良く分かる。

[8] ユング派の用語。すべての人間が共通して先天的に持つ本能的行動様式を生み出すための基礎となるもの。

[9] とはいえアリストテレスは、経験主義者であったわけではない。彼は、純粋経験主義を「それは結局、内面的な関係性が認められない表を果てしなく作ることに終始するのみだ」と批判している。

[10] ユングの心理学はオカルト色がやや濃く、日本では広く一般に研究されているが、国や地方によっては非科学的とみなされ、その対象から外されたりしている。

[11] 手法的には、数学が使える分野では、その言語が世界で統一されていることが理由となる。

[12] 電子顕微鏡などによって映しだされるのは、原子と名付けられた事象の持つ性質が視覚化されたものであって、原子の実在性を証明するものではない。

[13] 統一理論の構築のために提唱された概念。この理論では世界が10次元から成るとする。検証法がないことなどから、ノーベル賞受賞者のグラショウは、この理論を物理学ではなくむしろ神学だとした。

[14] クォークの複合体。陽子、中性子、π中間子、K、Λ粒子など。

[15] 実際には、この理論はマルクス主義にレーニンが追加したものである。

[16] ただ、一番やっかいなのは、実際にはそうでもないのに、自分が相手の立場に立って本当に相手を理解していると思いこむことである。人の思考回路は成長にまつわる個人的な要素によって強く規定されてしまうので、遠い場所にいる他人について、本当の意味で理解するということは不可能である。そういった意味で、敢えて相手を理解しようとする試みることよりも、差異を差異のままで尊重し合える心を養うことの方が有用であるといえよう。

[17] 現在では、β崩壊に伴うニュートリノの放出の観測などから、宇宙は完全に対称的ではないとされている。また、生物の世界では、DNAの螺旋の巻く方向に、対称性の破れが見られる。

[18] ちなみに、「脳内革命」の著者、春山茂樹氏はその著書で“自立訓練法”を実用として軽く教えているのであるが、この訓練法に伴う変性意識状態のもつ大変危険な側面を同時に教えないというのは、大きな問題である。読者のほとんどはその危険性について何も知らないのだから。

[19] ある前提を認めることによってうまく世の中の現象を説明することが科学の目的であるならば、輪廻転生といった法則も科学の法則と本質的に違いはないのではないだろうか。輪廻を裏付ける確固たる証拠はないが、それを認めることによって人間のライフサイクルがうまく説明がついたりするのである。ただしそれは、その説明を受け入れられる人にとってはであり、そこにその種の話が科学から遠いところにあるように感じられる原因の一端がある。しかし、こういった思想に対して私達がとるべき姿勢が、現在では信じるか信じないかの二択しかないというのは残念である。アカデミックな立場からこういったことに取り組むことはタブーとなっているが、「科学」の名は冠しなくとも、客観的な姿勢でそれらに望むことは、私達にとって有用なものであると思われる。多くの人々がその種の話に惹かれ続けているのという現実があるのだから。

 逆に、特に新興宗教団体は、自らが「科学的」であることを名乗りたがる。彼らの望みは、現代社会の基本理念となっている科学を自らの体系が包含しているように見せかけることである。彼らは、難しい言葉やグラフや数値を多用して権威づけようとするが、ほとんどの場合、そこには自分たちにとって都合良い結果の得られる実験方法や、用語の誤用などがあふれている。だが、もしも本当に科学体系によって説明しつくされる宗教があるのであれば、それはもう宗教ではない。信じなければならないところがあるからこそ“信仰”なのだから。