8時起床。今日も雨。寒い。
北方、黒人居住率の高いハーレム地区にでも行ってみることにした。
店もあまり開いてないし、やることもない。メインストリート(125th)以外は人も少ない。
寒さに震えつつ歩いていたら、絵売り(?)の日本人に呼び止められた。
一緒にいた絵描きはハーレムのピカソとか呼ばれているらしく、有名人らしい。
マーチン・ルーサー・キングJr 暗殺後、希望の消えた町に少しでも光を、と街のいたる
ところに絵を描いてまわったとのこと。
指差す先の店のシャッター群には確かに絵が書いてある。
なにやっているのか聞かれたので「目的もなくぶらぶらと」と答えると「せっかくだから
ゴスペルでも聴いていけば?」と、教会の場所を大まかに教えてくれた。
商業活動をまったくされなかったのが意外で、小さく嬉しかった。
ゴスペルが聴けるなんて、日曜の午前中にハーレムに来たのは正解だったなとにやけつつ、
言われた辺りに行ってみるが、教会は複数。
適当に近づいてみたら、中から歌声が聞こえてくる教会があったので入ってみた。
快く入れてくれるが、予想を外して観光客みたいな人はいない。
こんな教会。ATLAH World Missionary Church とあった。
中は歌で盛り上がっていた。手拍子でリズムを取り、体をゆすらせ。
賛美歌的聖歌のイメージから遠い。楽しい。
目立たないように最後列で慎ましやかにノッていたら、真中あたりに連れて行かれた。
20分くらいで歌が終わった。
人によっては既にトランス状態に入っているような感じで「ハレルーヤ!」
「オンリーユー!」などと繰り返し叫んでいる。
ちょっと怖い感じだが、これがこの地域での標準礼拝なのかな、と思うことにした。
しかしその後、多分違うだろうという結論に至る。
司教(だと思う。スーツを着ていたが)の話は例によって「この場にこうして集うこと
ができたことに感謝」的なことを延々となのだが、いちいち人々の反応が狂信的な感じ。
その後、信者の一人による儀式的なダンスが行われたりした。
時と共に集団(200人くらい?)がどんどん陶酔状態に入っていっている。
一人だけ人種が違うのも手伝って、ちょっと恐くなってきた。
その後、司教の話がまた始まる。寄付を要求している。
額は $70 以上でとの指定つき。そのことについて延々と説明が始まる。
内容は「神から受けている恩恵に比べれば・・・」「神の愛があるのになんでお金が
必要・・・」「与えることを惜しむ正当な理由があるのか・・・」等々。
なぜそんな大金が教会に必要なのかは説明されないが、人々は熱狂的に受け入れている
模様の反応を示している。サクラがまぎれてるのか?とも思わせる状況。
聴いていて身体的に吐き気がしてきた。
早く逃げ出したいが、この熱狂のど真ん中から抜け出せそうな雰囲気ではない。
皆に封筒が渡される。みんな小切手のようなものを取り出して入れている。
名前と住所とかも書かなくてはいけないとのこと。
そして、疑問とかためらいとかいうものを殺すような音楽と歌が場を満たす。
それに合わせて順に前に行進し、その封筒を司教のそばに置いていく。
恐!
当初、多少の献金はするつもりで来たが、この教会に共感できないので封筒に
「すみません、私は神を信じられません」とここでは絶対に口にできない事実を書いて空で置いた。
そして、場が動いているのに乗じて脱出した。
中にいた 1.5 時間で1冒険した感じだった。
中身のある話なんて全然聴けない礼拝。
人々が熱狂しているのは、歌とダンス、司教達の確信的な物言いと場がもたらす
高揚感の相互作用と連鎖だと思う。
入り込めればここは天国で、$70 を毎週払うに値するだけのものが得られるだろうが、
入り込めない者には苦痛以外の何者でもない。
あれほど露骨にカルトな場所に身を置いたのは多分始めてだった。
いい体験といえばそうだ。
気になって後で調べたら、ゴスペルをみんなが聴きに行く教会は全然違う場所にあった。
逃げ出した後、自然科学歴史博物館に行った。これまたでかい。
券を買うのにたくさん人が並んでいた。
一般向けの科学紹介を見るより、科学本読んでいたほうがエキサイティングなので
(腐っても理学学士)、並んでまで入るつもりはなかった。
でも、せっかくなのでと中をうろちょろしてたら、土産物屋経由でいつのまにか内部に
入っていた・・・。
せっかくだからとちょっとだけ中の様子もチェックするかと思うも、結局、長居してしまった。
驚く何かがないかなあと歩き回ったけれど、一つもなかった。
ただ、ミュンヘンやプラハで行った博物館のことを思い出した。
→ 目の前のセントラルパークを歩く(雨で人が少ない)
→ ジョンレノン記念のストロベリーフィールズ拝観
above us only sky 擦り切れたジョン・レノン
→ (ショッピング街)ソーホー見物。日本人多し。さすが。
→ ソーホーの現代アートの美術館へ。
現代アートは意味不明率は高いけれど、ヒットすると大きいから好き。
また、手法がバリエーションに富んでいて面白い。
入り口付近で、"白い部屋で白い服を着た中年男性人が狂ったように延々と空を殴り続けるビデオ作品"
を腕組して見ていたら、警備員の人が寄ってきて
「こいつ、アホだろ?酔っ払って自分がブルース・リーだと思ってるんだよ」
と笑いながら話かけてきた。
「いや、まったく愉快だ。変なやつだ・・・」
彼はおそらく、この作品を見てうなっている人を見つけては、その説を披露しているのだろう。
けれど、「アホはおまえだ」とは誰も教えないだろうな。
雨の中だが一応エンパイアステートビルへ。上のほうは雲の中。やはり警備員多し。
そのうちの一人が「なんも見えないから、登っても無駄だよ」と教えてくれた。
エンパイアは今日も雲の中
おとなしくチャイナタウンに戻り、4菜1汁ごはん山盛りで 2.75$ という格安中華を
流し込こむ。冷めててそんなにおいしくないが、ファーストフードばっかり食べて
いたので、新鮮でよかった。
22時フィラデルフィアに。寒い。ホームレスが毛布に包まっている。
この時間でも駐車場周辺は人気がなくてやはり怖い感じだ。
パーキングの様子。無人。コンクリート臭さとオレンジの光って寒さと孤独感を促進させません?
パーキング付近から街の様子
END
3度目の NY 行きを終えて ~ 答えのないもの
今回も聴いた現代曲。一般にはあまり人気がない。
鼻歌にできるようなメロディーはないし、起承転結も分かりにくい。
調性も不安定で落ち着かない。胎教にはきっと使えない。
なぜこういう形態の曲が作られるようになったのだろうかという疑問がわく。
飽き?
発端は、戦争にある(らしい)。
世界大戦の中で、戦意を高揚させるのに音楽が利用された経験を通し、一部作曲家が
「もう、人の心を動かすような音楽を作るのはやめよう」と決意してああいう形態の
曲が作られるようになったのだ。
人を特定の場所に導かない曲 - 理解に苦しむ曲。
それで完結してしまうことを、新しい意味とした。
美術のことはよく分からないが、現代アートについても同様の流れがあったと
想像する。やはり、一般には理解に困難な作品が多い。
観察者の想像なしには意味が生まれないような作品。
「ほんとに何か考えてつくっとるのか? さっぱり分からん・・・でも見てしまう。」
こういう態度は、新しいアートの模範的な観察者なのだと想像する。
ソーホーの現代アート美術館で出会った警備員。
冗談だろうとは思うが、彼は、理解困難な作品から、理解可能な意味を取り出した。
ハーレムの教会の礼拝参加者達。
彼らは、哲学が永遠の謎としてきた「今ここに在ること」や「幸せという感覚の源泉」に神という
答えを与えた。
それらの行為の動機は痛く理解できるし、そういう答えが間違っているとも言えない。
しかし、そこで私は、人々がその答えに安易に至ってそこにあったような印象を受けた。
事実は知りようもないが、一般論から、そういう行為に危惧を感じる。
様々な可能性、他の人の解釈とそこに至る過程を一瞥することもなく直線的にそこ
に辿りつき、安住しきってしまうことに。
その答え以外で説明はつかないのか?
なんで違う答えを持つ人がいるのか?
現代曲なんかよりもずっと不可解なこの世界。
答えになんて辿りつけないだろう。
しかし、それらの問いに立ち向かわないということは、世界に立ち向かわない
ということなのだ。
対立のない場所に安住の地を求める。
外の世界を「外の世界」とする。
完結。
信仰を貫ける場所を求め国を離脱し、新大陸に安住に地を築き上げた清教徒達。
そこで完結してくれればまだ救われたのに。
現代曲の創始者達の願いもむなしく、世界に対する安易な解釈が戦争の理由付けとして
国民にまかりとおってしまった今回の戦争を想う。
ブルース・リーしか知らなくてもいい。
ブルース・リーで世界を説明してしまってもいい。
だけれど、ブルース・リーだけが世界を説明できるわけではないということだけは知っていて欲しい。
「ほんとに何か考えてつくっとるのか? さっぱり分からん・・・でも生きてしまう。」
そういう世界鑑賞の方法が、哲学書から抜け出して人々の心に息づきはじめても
よい時代に来ていると思う。
そして、それが実用的な意味を持つほど、狭い世界で完結して生きることが難しい
世界になってきていると思う。
分からないことを 分からないこととして 受け止める 勇気と包容力を。
それも一つのブルース・リーだ と言われても。
END OF END